フリードリヒ2世の治世と死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 03:17 UTC 版)
「ホーエンシュタウフェン朝」の記事における「フリードリヒ2世の治世と死後」の解説
しかしハインリヒ6世の忘れ形見であるフリードリヒ2世が成長し、さらにオットー4世がイタリア政策に失敗し教皇インノケンティウス3世から破門、ブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世に敗れるなどしてドイツ諸侯の支持を失ったため、1215年にオットー4世が廃された後、フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝として即位することとなり、ホーエンシュタウフェン朝が復活した。フリードリヒ2世は国内の安定化のために諸侯の特権を承認する。さらにイタリア政策に力を注いだが、そのために教皇グレゴリウス9世と対立して、1227年に破門されてしまう。 しかし破門皇帝の身でありながら、1228年には第6回十字軍の総司令官としてシリアに遠征する。当時、アイユーブ朝のスルタン・アル=カーミル(サラディンの甥)は国内での内紛などの諸事情もあって、フリードリヒ2世の軍と戦っているような余裕がなく、交渉によって聖地エルサレムをフリードリヒ2世に譲渡することで和睦した。フリードリヒ2世は、多くの犠牲者を出して争ったエルサレム奪回を無血で果たしたのである。これは現在においても高く評価されている。 だが、ローマ教皇はフリードリヒ2世のイタリア政策を嫌って、シチリア国民や彼の長男でドイツ王のハインリヒを煽動して反乱を起こさせた。これに対しフリードリヒ2世は、ハインリヒの造反を鎮圧し、さらにシチリアの反乱を鎮圧したが、今度はイタリア北部のロンバルディア同盟の抵抗に遭う。フリードリヒ2世は同盟軍とたびたび戦ってこれを破ったが、決定的な勝利を得ることなくして1250年、55歳で死去した。 フリードリヒ2世の死後、次男コンラート4世が後を継いだが、在位4年で死去した。幼い息子のコッラディーノや末弟のマンフレーディもローマ教皇と争い、その支持を受けたシャルル・ダンジューによって滅ぼされた。さらに1272年にフリードリヒ2世の庶子エンツォが嗣子のないままボローニャで獄死したため、ホーエンシュタウフェン朝の男系は断絶し、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えることとなった。シチリア王国については、シャルルは1282年のシチリア晩祷戦争でシチリア島を失い、マンフレーディの娘コスタンツァと結婚していたアラゴン王ペドロ3世に奪われ、シチリア王国とナポリ王国に2分された。再統一は1504年までかかることになる。
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