フリードリヒのイタリア統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:48 UTC 版)
「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「フリードリヒのイタリア統治」の解説
フリードリヒの遠征中、グレゴリウス9世は北イタリア諸都市を唆して南イタリアを攻撃した。帰国したフリードリヒは都市を占領していた教皇派の軍隊を撃退し、グレゴリウスを威嚇しつつ和議を提案した。1230年にチュートン騎士団の仲介と皇帝側の譲歩の結果、サン・ジェルマノの和約が成立し、フリードリヒの破門が解除された。講和では同時にヴェローナの領主エッチェリーノ・ダ・ロマーノの破門の解除、港湾都市ガエータのローマ帝国への編入が認められ、教皇側には屈辱的な結果に終わる。 1231年のメルフィの会議で、フリードリヒはかつての皇帝たちが施行した法令を元に編纂した『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』を発布する。 都市・貴族・聖職者の権利の制限 司法・行政の中央集権的性質の確立 税制・金貨の統一 上記以外に、18世紀の啓蒙思想を先取りしたとも言われる規定が存在した。 貧民を対象とした無料の職業訓練・診察 私刑の禁止 薬価の制定 役人に対する不敬・賄賂の禁止 『皇帝の書』の発布によってシチリアには絶対主義的な体制が成立し、フリードリヒはかつてのローマ帝国の権威と伝統を復興させる意思を顕わにした。また、制定した法令を国民に周知させるため、コロックイアという会合が各地で開かれた。同1231年には北イタリア都市へのポデスタ(行政長官)の任命によって、北イタリアの都市にも支配を行き渡らせることを試みた。 1232年に開催されたフリウリの諸侯会議の後、北イタリアの都市ヴェローナが帝国に帰順し、領主エッチェリーノは北イタリアの皇帝派の中心人物となる。また、他の北イタリアの自治都市のうちピサ、シエナ、クレモナ、モデナもフリードリヒを支持した
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