フリードリヒ3世/1世の治世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フリードリヒ3世/1世の治世の意味・解説 

フリードリヒ3世/1世の治世(1688年 – 1713年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)

ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「フリードリヒ3世/1世の治世(1688年1713年)」の解説

詳細は「プロイセンの王」および「プロイセン王国」を参照 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世1701年よりプロイセン王フリードリヒ1世)は1657年ケーニヒスベルク生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム治世では1679年サン=ジェルマン=アン=レー条約フランス友好な関係を築いたが、ユグノー問題をめぐり再び悪化した。そのため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1686年12月22日ハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルト1世同盟締結した。この同盟において、フリードリヒ・ヴィルヘルムシュレージエンへの請求取り下げ、その代償としてブランデンブルク領ノイマルク(英語版)に隣接するシュヴィーブス(英語版)を獲得したフリードリヒ3世同盟交渉にあたって選帝侯世子として参加し1688年選帝侯領を継承する同盟継続約束、さらに秘密裏にシュヴィーブスを返還するという条約改正同意1694年にそれを履行したフリードリヒ3世それ以降治世通してハプスブルク家味方し対仏戦争でも軍を出した1693年フリードリヒ3世ウィーンにあるハプスブルク家宮廷で王への昇格主張しはじめ、一旦は失敗に終わるが、以降も王への昇格諦めなかった。 称号昇格はただの飾りではなく政治かけひきにおける優勢を得るためにも必要なことだった。フリードリヒ3世はすでに選帝侯という高位にあったが、バイエルン公マクシミリアン1世三十年戦争中1623年バイエルン選帝侯になり、1648年ヴェストファーレン条約プファルツ選帝侯が再創設されハノーファー家エルンスト・アウグスト1692年選帝侯位を得ており、元は7人だった選帝侯が9人まで増えた上(うち世俗諸侯は6人)、以降増える公算大きかったまた、選帝侯のうちザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世1697年ポーランド王に選出されており、ハノーファー選帝侯イギリスの王継承確保した。したがってフリードリヒ3世立場からは称号停滞権力喪失意味し1697年レイスウェイク条約ブランデンブルク=プロイセン主張ヨーロッパ諸国君主から無視されたこともそれを証明した神聖ローマ帝国では皇帝ボヘミア王のみ王号使用認められたが、プロイセン帝国領域外にあるのでその制限適用されず、またプロイセン公として主権有していたこともあり、フリードリヒ3世プロイセン公国からプロイセン王国への昇格目指すこととなった。しかし、フリードリヒ3世顧問一部はこの目標実現性疑問視しており、またたとえ昇格なされたとしても、ヨーロッパ諸国、特に神聖ローマ皇帝承認しなければ何の意味もなかった。1699年フリードリヒ3世皇帝レオポルト1世との交渉再開したが、レオポルト1世スペイン継承戦争勃発目前という状況にあって同盟国を必要としたため1700年11月16日王冠条約英語版)でフリードリヒ3世王として戴冠同意したまた、ポーランド王領プロイセン存在するため、フリードリヒ3世が「プロイセン国王」(König von Preußenではなくプロイセンの王König in Preußen)を称することとなったイギリスオランダレオポルト1世とほとんど同じ理由により、フリードリヒ3世称号昇格同意した1701年1月17日フリードリヒ3世プロイセンの黒国章採用、「各人に各人のものを」を標語定めた。翌18日にはプロイセン王フリードリヒ1世として妻ゾフィー・シャルロッテとともにケーニヒスベルク城戴冠した28日ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は(ポーランド王としてではなく選帝侯としてフリードリヒ3世祝い言葉述べ2月にはデンマーク=ノルウェー大北方戦争での同盟期待してフリードリヒ1世プロイセン王昇格同意ロシア・ツァーリ国同年プロイセン王昇格同意したその後神聖ローマ帝国諸侯大半同意しスウェーデン王カール12世1703年に、フランス王国スペイン王国1713年同意した一方ドイツ騎士団1525年ドイツ騎士団国プロイセン公国として世俗化された後もプロイセン地域への主張取り下げなかったため、フリードリヒ1世戴冠承認しなかった。ドイツ騎士団総長フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ皇帝レオポルト1世宮廷抗議し教皇クレメンス11世各地カトリック聖職者回状送りフリードリヒ1世王位承認するよう命じた。そのため、教皇文書では1787年までプロイセン王を「ブランデンブルク辺境伯」として呼称した。ポーランド・リトアニア共和国貴族ポーランド王領プロイセン脅かされる考えてフリードリヒ1世王位承認せず、1764年になってようやく承認した法律上ではブランデンブルクプロイセン1806年神聖ローマ帝国解体まで人的同君連合組んでいたが、1701年時点では神聖ローマ皇帝によるブランデンブルクへの宗主権がすでに有名無実になっており、したがって1701年以降ブランデンブルク実質的にプロイセン王国一部してみなされた。フリードリヒ1世名目上でしか皇帝宗主権承認しなかった。

※この「フリードリヒ3世/1世の治世(1688年 – 1713年)」の解説は、「ブランデンブルク=プロイセン」の解説の一部です。
「フリードリヒ3世/1世の治世(1688年 – 1713年)」を含む「ブランデンブルク=プロイセン」の記事については、「ブランデンブルク=プロイセン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フリードリヒ3世/1世の治世」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フリードリヒ3世/1世の治世」の関連用語

フリードリヒ3世/1世の治世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フリードリヒ3世/1世の治世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのブランデンブルク=プロイセン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS