フリードリヒ3世/1世の治世(1688年 – 1713年)
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「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「フリードリヒ3世/1世の治世(1688年 – 1713年)」の解説
詳細は「プロイセンの王」および「プロイセン王国」を参照 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(1701年よりプロイセン王フリードリヒ1世)は1657年にケーニヒスベルクで生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルムの治世では1679年のサン=ジェルマン=アン=レー条約でフランスと友好な関係を築いたが、ユグノー問題をめぐり再び悪化した。そのため、フリードリヒ・ヴィルヘルムは1686年12月22日にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟を締結した。この同盟において、フリードリヒ・ヴィルヘルムはシュレージエンへの請求を取り下げ、その代償としてブランデンブルク領ノイマルク(英語版)に隣接するシュヴィーブス(英語版)を獲得した。フリードリヒ3世は同盟交渉にあたって選帝侯世子として参加し、1688年に選帝侯領を継承すると同盟の継続を約束、さらに秘密裏にシュヴィーブスを返還するという条約改正に同意、1694年にそれを履行した。フリードリヒ3世はそれ以降治世を通してハプスブルク家に味方し、対仏戦争でも軍を出した。1693年、フリードリヒ3世はウィーンにあるハプスブルク家の宮廷で王への昇格を主張しはじめ、一旦は失敗に終わるが、以降も王への昇格を諦めなかった。 称号の昇格はただの飾りではなく、政治のかけひきにおける優勢を得るためにも必要なことだった。フリードリヒ3世はすでに選帝侯という高位にあったが、バイエルン公マクシミリアン1世が三十年戦争中の1623年にバイエルン選帝侯になり、1648年のヴェストファーレン条約でプファルツ選帝侯が再創設され、ハノーファー家のエルンスト・アウグストも1692年に選帝侯位を得ており、元は7人だった選帝侯が9人まで増えた上(うち世俗諸侯は6人)、以降も増える公算が大きかった。また、選帝侯のうちザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は1697年にポーランド王に選出されており、ハノーファー選帝侯はイギリスの王位継承権を確保した。したがって、フリードリヒ3世の立場からは称号の停滞が権力の喪失を意味し、1697年のレイスウェイク条約でブランデンブルク=プロイセンの主張がヨーロッパ諸国の君主から無視されたこともそれを証明した。 神聖ローマ帝国では皇帝とボヘミア王のみ王号の使用を認められたが、プロイセンは帝国の領域外にあるのでその制限が適用されず、またプロイセン公として主権を有していたこともあり、フリードリヒ3世はプロイセン公国からプロイセン王国への昇格を目指すこととなった。しかし、フリードリヒ3世の顧問の一部はこの目標の実現性を疑問視しており、またたとえ昇格がなされたとしても、ヨーロッパ諸国、特に神聖ローマ皇帝が承認しなければ何の意味もなかった。1699年、フリードリヒ3世は皇帝レオポルト1世との交渉を再開したが、レオポルト1世がスペイン継承戦争の勃発目前という状況にあって同盟国を必要としたため、1700年11月16日の王冠条約(英語版)でフリードリヒ3世の王としての戴冠に同意した。また、ポーランド王領プロイセンが存在するため、フリードリヒ3世が「プロイセン国王」(König von Preußen)ではなくプロイセンの王(König in Preußen)を称することとなった。イギリスとオランダもレオポルト1世とほとんど同じ理由により、フリードリヒ3世の称号昇格に同意した。 1701年1月17日、フリードリヒ3世はプロイセンの黒鷲を国章に採用、「各人に各人のものを」を標語に定めた。翌18日にはプロイセン王フリードリヒ1世として妻ゾフィー・シャルロッテとともにケーニヒスベルク城で戴冠した。28日、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は(ポーランド王としてではなく)選帝侯としてフリードリヒ3世に祝いの言葉を述べ、2月にはデンマーク=ノルウェーが大北方戦争での同盟を期待してフリードリヒ1世のプロイセン王昇格に同意、ロシア・ツァーリ国も同年にプロイセン王昇格に同意した。その後、神聖ローマ帝国の諸侯の大半が同意し、スウェーデン王カール12世が1703年に、フランス王国とスペイン王国が1713年に同意した。一方、ドイツ騎士団は1525年にドイツ騎士団国がプロイセン公国として世俗化された後もプロイセン地域への主張を取り下げなかったため、フリードリヒ1世の戴冠を承認しなかった。ドイツ騎士団総長フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツは皇帝レオポルト1世の宮廷で抗議し、教皇クレメンス11世は各地のカトリック聖職者に回状を送り、フリードリヒ1世の王位を承認するよう命じた。そのため、教皇の文書では1787年までプロイセン王を「ブランデンブルク辺境伯」として呼称した。ポーランド・リトアニア共和国の貴族はポーランド王領プロイセンが脅かされると考えてフリードリヒ1世の王位を承認せず、1764年になってようやく承認した。 法律上ではブランデンブルクとプロイセンが1806年の神聖ローマ帝国解体まで人的同君連合を組んでいたが、1701年時点では神聖ローマ皇帝によるブランデンブルクへの宗主権がすでに有名無実になっており、したがって1701年以降のブランデンブルクは実質的にはプロイセン王国の一部としてみなされた。フリードリヒ1世も名目上でしか皇帝の宗主権を承認しなかった。
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