フリードリヒ2世に仕えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:08 UTC 版)
「ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン」の記事における「フリードリヒ2世に仕えて」の解説
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の後を継いだフリードリヒ2世(大王)にも仕え、1741年に勃発した第一次シュレージエン戦争では中隊長の少佐として参加した。1741年5月10日に、彼はシュトレーレン (Strzelin) とニムプチュ (Niemcza) の間で生起したオーストリア軍との戦闘で功を立てる。それによって近衛フザール連隊(後のH 2)の中佐に昇進し、プール・ル・メリット勲章を授かった。早くも同年7月22日には大佐に昇進し、自身の連隊、「ヨアヒム・フォン・ツィーテン」フザール連隊 (de:Husarenregiment Joachim von Zieten) を賜っている。1741年から1742年にかけての冬営中、ツィーテンはプロイセン騎兵部隊の再編作業に携わった。1743年、彼は「丸木小屋」こと古い生家を取り壊させ、ヴストラウに立派な館を建てさせている。 1744年、ツィーテンはプロイセン軍の前衛部隊と共にボヘミアのブートヴァイスへ進出した。10月9日、モルダウタイン (Týn nad Vltavou) にて彼は再編され、20世紀に至っても名を残す第二フザール連隊を自ら率い、初めて優勢な敵を打ち破る。ツィーテンはエルベ川越えの撤退を援護し、モルダウタインで10月12日、激戦に身を投じた。この年、世に広まる「藪から出たツィーテン(Zieten aus dem Busche)」という異名が付いている。 同様に1745年5月20日の夜、彼は自身の連隊550名をもって20,000名のオーストリア軍が展開する一帯を突破し、シュレージエンのイェーガーンドルフ (Krnov) へと駆け抜け、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯カールの指揮する軍団を伴うプロイセン軍本隊と立派に合流を果たす。これは後に「ツィーテンの騎行(Zietenritt)」と呼ばれるようになった。結局、14日後の6月4日にツィーテンのフザール部隊はホーエンフリートベルクの戦いに参加し、大規模な戦闘で初めて功を挙げる。その後、同年11月のヘンネルスドルフの戦いにおける勝利はほとんど、少将に昇進していたツィーテンの功績に拠るものであった。 ドレスデンの和約の後、再び馴染み深い軍務の日常が始まったが、それはツィーテンを喜ばせるものではなかった。時折、彼は大王から不興を買う。ツィーテンから見れば、大王は彼を充分に重んじていなかった一方で、大王は余りにも弛緩して見える、フザール部隊の規律を咎めていたのである。ツィーテンは何年も宮廷から遠ざかり、自分の所領で王室を憎んでいた。しかし除隊の申請は認められなかった。1756年3月には妻が亡くなり、年齢を重ねる少将は痛風を患い始めていた。 1756年から1763年にかけての七年戦争の勃発は、人間関係にも転機をもたらす。フリードリヒ2世は真摯に、60歳に達しようとする少将の協力を求め、最終的に軍の上級指揮権を与えた。そして続く試練の7年間、ツィーテンは頼もしい指揮官となった。さらに重要なことに、彼は主君から慈父に向けるような親愛の情を勝ち得たのである。 1757年、中将に昇進したツィーテンはライヒェンベルクとプラハの戦いに参加した。同年5月5日に黒鷲章 (Order of the Black Eagle) を授かる。コリンの戦いでは左翼を指揮し、シュレージエンで指揮権を託されたブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム (August Wilhelm, Duke of Brunswick-Bevern) の旗下に配される。11月24日に公が捕縛されると、ツィーテンは残りの軍勢をグローガウからリーグニッツに居る大王の下へ導き、12月5日のロイテンの戦いで功を立てた。1760年8月15日、リーグニッツの戦いの時、彼はオーストリア軍主力の牽制に成功し、ついに戦場への介入を阻んだ。その功により、ツィーテンは騎兵大将に昇進する。 1760年11月3日のトルガウの戦いに際して、彼はズュープティッツ高地(Sübtitzer Höhen)を攻略し、勝利をつかみ取った。さらに1761年、「ブンツェルヴィッツ (Bolesławice) の野営」において深刻な精神的危機に陥っていた大王を立ち直らせ、改めて指揮を執るよう励ましたのはツィーテンであった。また終戦までに、大王の御前で何度もプロイセン軍の上級指揮権を託されている。戦争が終結する頃、ツィーテンは王国のエリートにして、歳を重ねた大王の側近に数えられるまでになっていた。 1764年の8月24日、65歳になっていたツィーテンは25歳のヘートヴィヒ・フォン・プラーテン(Hedwig von Platen)と再婚した。最初の結婚で生まれた娘は18歳になっており、この第二の結婚生活から1765年には息子が、1773年には娘が生まれている。次女は後のヴストラウ領主、ツィーテン=シュヴェリーン伯家の祖となった。
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