フリードリヒ1世の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 03:17 UTC 版)
「ホーエンシュタウフェン朝」の記事における「フリードリヒ1世の治世」の解説
赤みを帯びた髭を持っていたためバルバロッサ(赤髭王)と呼ばれたフリードリヒ1世は、コンラート3世が見込んだ通り優秀な人物であった。まず、帝国の内部を安定させるためドイツ諸侯に大幅な特権を認め、優秀な人材を登用して平和令を公布するなどして、国を比較的に安定化させた。しかし、フリードリヒ1世はイタリアに5度も遠征する。歴代の神聖ローマ皇帝が行ったイタリア政策を踏襲し、これを成功させることで皇帝権力のいっそうの強化を目指したのである。しかしこのため、ローマ教皇やフリードリヒ1世に支配されることを嫌ったイタリア北部の都市と対立・抗争を繰り広げることとなる。 このため、報復として1162年にフリードリヒ1世はミラノを破壊したが、これに教皇アレクサンデル3世は激怒して1165年にフリードリヒ1世を破門する。1168年にはイタリア北部の都市が集結したロンバルディア同盟の抵抗に遭う。1174年からは国内においてもフリードリヒ1世のイタリア政策に批判的な意見も上がるようになり、1176年にレリャーノの戦いでロンバルディア同盟に大敗すると、事実上フリードリヒ1世のイタリア政策は失敗し、1183年にロンバルディア同盟の自治を認めることで和睦した。その後はバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ獅子公(傲岸公の息子)の帝国追放などドイツの安定に努めた。 1189年、第3回十字軍の総司令官としてイングランド王リチャード1世・フランス王フィリップ2世と共に遠征し、1190年にはイコニウムの戦いでアイユーブ朝を中心としたイスラム軍を破ったが、同年6月にキリキアのサレフ河で渡河中に落馬し、溺死してしまった。
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