カール・オイゲン治世下のルートヴィヒスブルク
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「ルートヴィヒスブルク」の記事における「カール・オイゲン治世下のルートヴィヒスブルク」の解説
父カール・アレクサンダーが早逝した後、9歳のカール・オイゲンがヴュルテンベルク公に就いた。治世初期の1744年にカール・オイゲン公は、宮廷のルートヴィヒスブルク再移転を話題にしてラントシュテンデを脅かした。公爵を自分たちの近く、すなわちシュトゥットガルトに留めておくために、ラントシュテンデ、福音主義聖職者指導者、市民階級は、シュトゥットガルトの宮殿新築のための資金を認可した。現在のノイエス・シュロス(ドイツ語版、英語版)(新宮殿)である。しかし、2つの理由により、シュトゥットガルトは首都機能をルートヴィヒスブルクに奪われた。1つは、カール・オイゲンとラントシュテンデとの間の衝突激化、もう1つは1762年に完成間近だった新しい城館がほぼ完全に焼失したことであった。カール・オイゲン公は1764年に宮廷をシュトゥットガルトからルートヴィヒスブルクに移した。公爵は他の領邦君主との文化的競争に直面していた。18世紀にはすでに書簡、旅行、肖像画や銅版画のやりとりが、領主間の緊密なコミュニケーションネットワークを形成していた。その結果文化的な競争が常に行われていたのであった。カール・オイゲンも、その威信にかけて、他の君主の文化プログラムに後れを取ることは許されなかった。 こうした観点から、18世紀後期の近代的な宮廷都市としてルートヴィヒスブルクには欠けているものがあった: オペラ劇場である。1764年11月11日にカール・オイゲンは、自分の37歳の誕生日までにオペラ劇場を完成させるよう命じた。当時ヨーロッパ最大のオペラハウスを建設するためにカール・オイゲンが建設責任者に与えたのはわずか3.5か月であった。期限に間に合わせるために周辺の村の農民たちに、木を切り倒してルートヴィヒスブルクへ木材を運び込む労役が課された。300人の大工、150人の左官、75人の下働き、40人の石工、20人の家具職人が建設工事に雇われた。さらに軍役から転属した近衛兵がこれに加わった。その結果、1765年2月11日の公爵37歳の誕生日には、実際にオペラを上演することができた。ヨーロッパ全土から高名な芸術家をルートヴィヒスブルクの宮廷に招くため、カール・オイゲンは高額の報酬を支払った。公爵は、パリ出身のバレエ振付師ジャン=ジョルジュ・ノヴェール1人のために、兵士12,000人分よりも多くの金を払った。カール・オイゲンは、ローマ教皇の宮廷からイタリア人作曲家ニコロ・ヨンメッリをルートヴィヒスブルクに引き抜いた。 しかし、モーツァルト親子とルートヴィヒスブルクで対面することには失敗した。マンハイムやパリへの旅の途中、1763年に子供のヴォルフガング・アマデウスとマリア・アンナはルートヴィヒスブルクに滞在した。父レオポルトは子供たちを公爵に披露するつもりでいた。しかし公爵はグラーフェネック城へ狩りに出かけており、家族はこれを果たせなかった。家族は宮殿の真向かいのホテル・ヴァルトホルンに2日間滞在した。 カール・オイゲン公治下でのバロック建築は、ゼーシュロス(湖の城)モンレポス城(ドイツ語版、英語版)(工期: 1764年 - 1768年)で完結した。カール・オイゲンとそのゲストは、ヴェネツィア風のゴンドラでこの城へ到着する趣向であった。しかし工事開始後4年でカール・オイゲンはこの別荘工事を中止させた。彼の興味はすでにゾリトゥーデ城(ドイツ語版、英語版)に移ったためであった。 カール・オイゲンは完全に啓蒙主義の立場から、宮廷の他にもルートヴィヒスブルクに施設建設を奨励した。10万巻の書物を収める彼の宮廷図書館は、ヴュルテンベルク公領で最初に一般公開された図書館であった。カール・オイゲンは1758年にヨーゼフ・ヤーコプ・リングラーの協力を得てルートヴィヒスブルクに製陶工場を設立した。しかしこの工場は経済的利益を生まなかった。それは、磁器作りの原料であるカオリナイトをパッサウから輸入しなければならなかったからであった。多くの領邦や帝国都市を通って原料を運ぶことで、通行税の支払いが必要となり、ルートヴィヒスブルク磁器の価格はとても高いものとなり、ヴュルテンベルク公の経済援助なしでは立ちゆかなくなった。 廷臣の目から一時的に逃れるため、カール・オイゲンは宮殿の中に私的な隠居所を要求した。フランス人宮廷建築家フィリップ・ド・ラ・ゲピエールは、ノイエス・コルプス・デ・ロギスの3階に当時流行のロココ様式で、いわゆる「ノイエス・ツィンマー」(直訳: 新しい部屋)を造った。これは、ギャラリー、2つの前室、コンサートホール、遊戯室、2つの小部屋、寝室からなるエンフィレード(ドイツ語版、英語版)(一列に並んだ続き部屋)であった。公爵はパリ滞在中に多くの高価な家具を購入した。カール・オイゲンはここで音楽、小さなサークルの集まり、バックギャモンやチェスなどのテーブルゲームを楽しんだ。しかしカール・オイゲンはゾリトゥーデ完成直後に新しい城館に家具を運び出した。 カール・オイゲンは常備軍の一部をルートヴィヒスブルクに駐屯させた。1773年には、この街には11,000人が住んでいたが、その半分以上が駐屯軍に属していた。 1775年、カール・オイゲンは宮廷を最終的にシュトゥットガルトに戻した。これは、1770年のいわゆる相続和議 (Erbvergleich) の結果であった。ヴュルテンベルクのラントシュテンデたちは、ヴュルテンベルク公が法的な権限を逸脱しているとしてウィーンの帝国顧問官会議(ドイツ語版、英語版)で訴えた。ラントシュテンデの見地からすれば公爵は、公爵とラントシュテンデとの間で法的権限を区分した1514年のテュービンゲン条約をないがしろにしていた。帝国顧問官会議はヴュルテンベルクのラントシュテンデの権利を認め、絶対君主制を目指していたカール・オイゲンに対してシュトゥットガルトで会議を行っているラントシュテンデに歩み寄るよう命じた。シュトゥットガルトへ向かう宮廷の行列は、公爵の宥和を象徴するジェスチャーとして構想された。ルートヴィヒスブルクにとってそれは、新たな衰退を意味していた。1775年以後多くの建物が空き家となり、公園施設は荒廃し、道路には雑草が生えた。当時ルートヴィヒスブルクは「グラスブルク」(直訳: 草の城)と揶揄された。この状態は、フリードリヒ2世公(後の初代ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世)の治世が始まるまで続いた。
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