競争に直面して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:48 UTC 版)
「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の記事における「競争に直面して」の解説
ロッキー山脈を越える路線の建設は、それに関わる物資補給の問題から遅々として難しかった。場合によっては競合者との武装闘争も発生した。コロラド州やニューメキシコ州においてはデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道と、そしてラトン峠を制した後はアリゾナ州やカリフォルニア州においてサザン・パシフィック鉄道と抗争があった。サザン・パシフィック鉄道と、サンタフェ鉄道の子会社であるカリフォルニア・サザン鉄道(英語版)の間で1883年9月にカリフォルニア州コルトン(英語版)で繰り広げられたフロッグ・ウォー(英語版)(線路の交差を巡って繰り広げられる争い)に代表される。しかしこの鉄道とライバル鉄道の問題は小競り合いの域をはるかに超えた。1880年代末、サンタフェ鉄道で働いてきて会長へと上り詰めたジョージ・マグーン(英語版)は、次第に健康が衰えつつあった。1899年には会長の継承問題への世間の関心と密接にリンクしていた株価は1株あたり140ドルほどから20ドルほどまで落ち込んだ。マグーンの健康は株価と共に衰え続け、1893年12月20日に亡くなった。サンタフェ鉄道はその3日後、12月23日に倒産し、ジョセフ・ラインハート(英語版)、ジョン・ジェームズ・マクック(英語版)、ジョゼフ・ウィルソン (Joseph Wilson) が破産管財人として指名された。ユニオン・パシフィック鉄道もまたライバルであったが、サザン・パシフィック鉄道ほどではなかった。ユニオン・パシフィック鉄道もまた西部において鉄道網を拡張しており、ロッキー山脈の北部に路線を持っていた。
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