オットー (オーストリア公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/21 07:05 UTC 版)
オットー陽気公 Otto der Fröhliche |
|
---|---|
オーストリア公 ケルンテン公 |
|
![]() |
|
在位 | オーストリア公:1330年 - 1339年 ケルンテン公:1335年 - 1339年 |
|
|
出生 | 1301年6月23日![]() ![]() |
死去 | 1339年2月17日(37歳没)![]() ![]() |
埋葬 | ![]() ![]() |
配偶者 | エリーザベト・フォン・バイエルン |
アンナ・フォン・ベーメン | |
子女 | フリードリヒ2世 レオポルト2世 |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | ローマ王アルブレヒト1世 |
母親 | エリーザベト・フォン・ケルンテン |
オットー(Otto, 1301年6月23日 - 1339年2月17日)は、ローマ王アルブレヒト1世と王妃エリーザベト・フォン・ケルンテンの末息子。兄アルブレヒト2世の共同統治者としてオーストリア公(在位:1330年 - 1339年)、ケルンテン公(在位:1335年 - 1339年)であった。オットー陽気公(Otto der Fröhliche)と呼ばれる。兄には他にボヘミア王ルドルフ1世、ローマ王フリードリヒ3世(美王)、オーストリア公レオポルト1世がいる。
生涯
母方の叔父でルドルフ1世とボヘミア王位を争ったハインリヒ6世の死後、ケルンテン公国を兄アルブレヒトとともに相続した。
1325年にバイエルン公シュテファン1世の娘エリーザベトと結婚したが、1330年に死別した。1335年にボヘミア王ヨハンの娘アンナと再婚したが、1338年に死別し、翌1339年に自身も死去した。先妻エリーザベトとの間にフリードリヒ2世(1327年 - 1344年)、レオポルト2世(1328年 - 1344年)の2男がいたが、いずれも早世した。後妻アンナとの間の子はなかった。
|
|
|
|
「オットー (オーストリア公)」の例文・使い方・用例・文例
- プリンス・オットー・フォン・ビスマルクまたは彼の業績の、あるいはそれらに関するさま
- 962年に最初の皇帝としてオットー1世の教皇戴冠に始まってナポレオンによって解体される1806年まで続いた政治的存在
- 英国の物理学者(オーストリア生まれ)で、リーゼ・マイトナーとともに核分裂と命名した新しいタイプの核反応を、オットー・ハーンが作り出していたことを認めた
- スウェーデンの物理学者(オーストリア生まれ)で、オットーハーンとともに放射化学の分野で活動し、オットーフリッシュとともに核分裂の概念を明確に述べた(1878年−1968年)
- 英国の歴史家、ジョージオットー・トレベリアンの息子で、その作品は英国の社会史とガリバルディの伝記を含む(1876年−1962年)
- ある日,ピーターは著名な科学者Dr. オットー・オクタヴィウス(アルフレッド・モリーナ)を紹介される。
- 彼には別居中の妻マリー・アン(ミランダ・オットー)との間に2人の子ども,ロビー(ジャスティン・チャットウィン)とレイチェル(ダコタ・ファニング)がいる。
- オットー_(オーストリア公)のページへのリンク