エリーザベト・フォン・ケルンテンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エリーザベト・フォン・ケルンテンの意味・解説 

エリーザベト・フォン・ケルンテン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 07:37 UTC 版)

エリーザベト・フォン・ケルンテン
Elisabeth von Kärnten
ローマ王妃
オーストリア公妃
ローマ王妃エリーザベト
在位 ローマ王妃:1298年 - 1308年

出生 1262年
神聖ローマ帝国
バイエルン公国ミュンヘン
死去 1313年10月28日
神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
埋葬 神聖ローマ帝国、ケーニヒスフェルデン修道院→ザンクト・ブラジエン修道院→ザンクト・パウル・イム・ラヴァンタール女子修道院
結婚 1274年12月20日 ウィーン
配偶者 ローマ王アルブレヒト1世
子女 一覧参照
家名 ゲルツ家
父親 ケルンテン公マインハルト(2世)
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

エリーザベト・フォン・ケルンテン・ゲルツ・ウント・ティロル(Elisabeth von Kärnten, Görz und Tirol, 1262年頃 - 1313年10月28日)は、オーストリア公およびシュタイアーマルクアルブレヒト1世の妻。夫が1298年ローマ王に選出されると、ローマ王妃となった。

生涯

ケルンテン公マインハルト(2世)と、その妻でバイエルン公ライン宮中伯オットー2世の娘であるエリーザベトの間の次女として生まれた。1274年ハプスブルク家のローマ王ルドルフ1世の長男であるオーストリア公アルブレヒトと結婚した。

エリーザベトは賢く、領主としての経営手腕にすぐれた女性で、商才に長けていた。ザルツカンマーグート塩田が建設されたのはエリーザベトの発案だったと言われる。1299年ニュルンベルクにおいてローマ王妃として戴冠した。

夫のアルブレヒト1世は1308年5月1日アーレ川沿いのブルクにおいて、ラインフェルト協定(Rheinfelder Hausordnung)に基づく財産分与が実現されないことに怒った甥のヨハン・パリツィーダの手にかかって暗殺された。夫の頓死に居合わせたエリーザベトは、そのままその地に残り、ブルク郊外にケーニヒスフェルデン修道院(Königsfelden)を建設し、死後その修道院に埋葬された。

王妃の遺骸はその後、シュヴァルツヴァルトのザンクト・ブラジエン修道院(Kloster St. Blasien)を経て、現在はケルンテン州のザンクト・パウル・イム・ラヴァンタール女子修道院(Stift St. Paul im Lavanttal)に安置されている。

子女

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エリーザベト・フォン・ケルンテン」の関連用語

エリーザベト・フォン・ケルンテンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エリーザベト・フォン・ケルンテンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエリーザベト・フォン・ケルンテン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS