エストニア、ラトビア、リトアニアへの最後通告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:07 UTC 版)
「バルト諸国占領」の記事における「エストニア、ラトビア、リトアニアへの最後通告」の解説
1939年9月24日、赤軍の海軍軍艦がエストニアの港沖に現れ、ソ連軍爆撃機がタリンとその近郊上空で威嚇飛行を始めた。9月25日、ソ連はバルト三国全ての空域に入り、大規模な情報収集活動を実施。ソ連政府はバルト三国がその領土にソ連の軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求した。 1939年9月28日、エストニア政府は最後通告を受諾し、関連する協定に調印した。10月5日にラトビアが続き、リトアニアは10月10日に調印した。その協定はヨーロッパの戦争の期間、ソ連がバルト三国の領土にソ連の軍事基地を建設することと1939年10月からエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の赤軍駐留を認めるものだった。 詳細は「ソビエト・エストニア相互援助条約(ロシア語版)」、「ソビエト・ラトビア相互援助条約(ロシア語版)」、および「ソビエト・リトアニア相互援助条約(英語版)」を参照 1939年前半、レニングラード軍管区は既にバルト三国に向けて赤軍の約10%に当る17師団の配備を終えていた。間もなく動員が行われた。1939年9月14日、第8軍がプスコフに派遣され、動員された第7軍はレニングラード軍管区の指揮下に入った。侵攻準備はここまでに完成に近づいていた。9月26日、レニングラード軍管区には「エストニア・ラトビア国境へ部隊の集中の開始と9月29日の作戦終了」が命じられる。その命令では「攻撃開始の時刻については別の命令が発せられる」ことと伝えられる。1939年10月初めまでにソビエトはエストニア・ラトビア国境に全部で以下のような準備を終えていた。 兵力 437,325 砲撃火器 3,635 戦車 3,052 装甲車 421 車両 21,919
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