乙未事変
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乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼、岡本柳之助らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊[1]、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反閔妃朝鮮人の共同で暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう[2]。
- ^ 参謀本部が指揮を取る京城守備隊とは別の部隊であり、日本公使館が指揮を取る警備隊
- ^ 閔妃(びんひ)暗殺事件国立公文書館
- ^ a b c d 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』、872,983頁。"三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊・日本軍守備隊・日本警察官・日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。"。
- ^ a b c d 「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)
- ^ a b 「李朝滅亡」p58,片野次雄 · 1997年 「朝鮮王族も一枚岩でなく、双方の派で殺し合いまでしていたほど反明成皇后である興宣大院君、表立って父を批判出来ないが、明成皇后への身分下げ措置等には反対する高宗と純宗とに分かれていた。1898年に大院君が死亡するとそれまで明成皇后と大院君の指示を受けていただけの高宗が実権を握るようになる。1903年に明成皇后殺害した朝鮮人の一人である禹範善が暗殺された。1907年8月31日付往電第31号によると、明成皇后の息子の純宗は明成皇后殺害の犯人である禹範善の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとして主張していた。反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、双方で減刑措置が和解案となり、主犯は当初死刑判決だったものの、無期懲役で確定となり、無期にもかかわらず5年間の懲役で朝鮮半島に返される措置を受けている。」
- ^ a b 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照
- ^ a b c d e 山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39
- ^ p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
- ^ a b c d p491 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
- ^ 黒竜会 編『東亜先覚志士記伝.上巻』昭和8-10、黒竜会出版部、p525、国会図書館デジタル・コレクション= http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1242345&contentNo=296&outputScale=4
- ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308
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- ^ 海野福寿『韓国併合』岩波書店〈岩波新書〉、1995年5月 p50
- ^ a b 한겨레. “朝鮮はわずか「30年」で滅びた”. japan.hani.co.kr. 2024年3月8日閲覧。
- ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24
- ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-p25
- ^ a b 小松裕『「いのち」と帝国日本(全集日本の歴史 第14巻)』小学館、2009年、240頁。"閔妃殺害事件に関するこれまでの研究史を見ると、ほとんどが三浦梧楼首謀説をとっている。"。
- ^ a b c 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87
- ^ 鄭容和, <文明の 政治思想: 兪吉浚の 近代韓國(문명과 정치사상:유길준과 근대한국)> (文学と知性社, 2004) 93
- ^ a b 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
- ^ 中村粲『大東亜戦争への道』展転社、1991年、70頁。ISBN 4-88656-062-8。
- ^ 2010年2月12日『毎日新聞』
- ^ a b GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日 號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
- ^ a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
- ^ 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
- ^ a b 1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』
- ^ アジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700 明治28年12月26日付機密第53号
- ^ a b 『原敬関係文書』第1巻
- ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
- ^ 高宗は露館播遷後に朴銑、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸冤이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 内閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
- ^ アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号
- ^ 『機密第36号』、『機密第51号』及び『附属地図』
- ^ a b 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
- ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 3번째기사
- ^ 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
- ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 6번째기사
- ^ a b 1907年8月31日付・往電第31号
- ^ アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
- ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-25
- ^ 伊藤博文/編「秘書類纂 朝鮮交渉史 中」p.526-p.535(1970年に原書房より復刻)
- ^ 原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書)
- ^ 永井靖二. “外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年2月8日閲覧。
- ^ 松村正義 (2010年). “決断の時・知られざる外交官の舞台 第2回「中南米との文化外交に尽力した堀口九萬一 『外交』Vol.2” (PDF). 外務省. 2022年2月8日閲覧。
- ^ (朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる - 朝日新聞2008年6月28日付
- ^ 崔文衛『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年
- ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.98-p.141,p.358,p.359
- ^ 安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193
- ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345
- ^ 1907年8月31日付・往電第31号
- ^ 「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)p.353
- ^ 2005年5月9日 朝鮮日報
- ^ 同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。
- ^ “明成皇后殺人犯の子孫が謝罪”. 中央日報. (2005年5月10日)
- ^ 明成皇后殺害凶器「肥前刀」の還収委員会発足Wow Korea,2010/03/26 17:43配信YONHAPNEWS.
- ^ a b 「明成皇后殺害凶器の肥前刀、日本の神社に返還要求へ」2010.3.25 20:26,聯合ニュース
乙未事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:43 UTC 版)
事変の詳細及び首謀者をめぐる諸説については「乙未事変」を参照 しかし日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた閔妃の勢力は衰退していく。そのため閔妃は清への事大主義に代わり親露政策を更に推し進め、今度は7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。この一件後の反閔妃派の不穏な動きを察し、反対勢力(訓練隊等)の武装解除等を行った。 親日開化主義から親清事大を経て、親ロシアへと次々に方針を転換したかのように見える閔妃の政策はまさに大院君への怨念ともいえる姿勢で貫かれており、これらが原因で大院君に代表される反対派勢力による反感を買うことになる。閔妃の動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、開国504年(1895年)10月8日早朝、景福宮に日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入する事件が発生、閔妃もその混乱の中で殺害された(乙未事変)。 閔妃の死後、対立してきた大院君によって王后としての称号を剥奪され、平民に降格されたため、当初は東九陵の崇陵前に埋葬されたが後に清凉里の洪陵に移され、さらには高宗の没後は南楊州市の金谷洞に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵に移された。
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乙未事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
事変の詳細及び首謀者をめぐる諸説については「乙未事変」を参照 10月7日、閔妃派はかねてより疎んじていた、日本側関与により創設された訓練隊の解散と武装解除を通告したが、これは閔妃派一掃にむけた闘争心を増した。翌日、宮中を監督していた大院君は刺客を宮中に入れる為裏門を開放し、密かに訓練隊を侵入させた。明け方第1大隊長李斗璜・第2大隊長禹範善そして日本人士官の指揮による日本人男性が侍衛隊を強襲して破り、騒動の中で閔妃の邸内に侵入し、閔妃の邸内の女官に掴みかかって閔妃の居所を厳しく詰問した。殿舎に入って宮女3人が死亡したこと、追ってその内の1人が閔妃であることが確認された。閔妃の遺体は焼かれていた。事件は速やかに報告され、大院君はすぐに高宗がいる乾清宮に参内した。高宗は恐怖に怯えており、また大院君と決裂していた。大院君は完興君を使って高宗をなだめるが、高宗は悲しみと同時に怒りを覚えていた。10日、大院君は閔妃の地位を平民に格下げした。同日の昼、兪吉濬は事態の収拾のためにアメリカ側に今回の事件は大院君がいると述べて事態を収拾しようとした。さらに大院君は嫡長孫永宣君を流刑地から逃亡させた。
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乙未事変
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「明成皇后 (テレビドラマ)」の記事における「乙未事変」の解説
第117回 閔妃殺害(乙未事変)決行の晩。 第118回、第119回 大院君が無理やり王宮に連れて行かれる。 第120回 閔妃が殺される。 第121回 三浦梧楼が閔妃を廃位させる。
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