親露政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:54 UTC 版)
この後、李範晋はロシア公館に逃げ込み、次のような順番で高宗奪回を試みた。 2月5日、李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。各地での暴動 2月10日、ロシアは107名の水兵、20名の食料担当兵、大砲一門を漢城に搬入。ロシア兵150名となる。宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。 2月11日、高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ。以下の勅令をだす。閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵・禹範善・李斗璜・李軫鎬・李範来・権濚鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ。 新内閣の公示 前総理・金弘集と前農商工部大臣・鄭秉夏は亡命せず、警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却。 2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起、官衙官宅を毀壊。 2月22日 内閣体制の更新。李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始。 この計画は成功し、高宗はロシアと内通してロシア領事館に逃げ込み、反ロシア派は一掃された(露館播遷)。しかし、親露政策は、英国・米国など海洋勢力の警戒心を引き起こした。日本は逆に1902年に日英同盟を締結することで、日露戦争勝利の布石を打った ロシア領事館の保護下で、高宗は親露政策を取り、様々な契約をロシアと締結した。開化派の金弘集などは殺された。多くの権益がロシアに奪われ、民衆は親露政権に対しても反発の動きを見せたため、高宗は王宮へ戻らざるを得なくなった。こうした自主独立の動きに押され、高宗は1897年10月12日、朝鮮初となる皇帝に即位、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とした。しかし、王権拡大憲法とされる「大韓国国制(朝鮮語版)」を公布して専制君主国家への動きを見せ始める。 また、乙未事変の再調査を行い、日本人壮士らに閔妃が殺害されたという「王宮事変に関する公報」を政府として公表しようとするが、日本公使小村寿太郎の圧力によって英文雑誌に記事を掲載させるにとどまったとも言われる。一方で高宗は、1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒(私の部下の中に犯人が居た)」と述べている。
※この「親露政策」の解説は、「高宗 (朝鮮)」の解説の一部です。
「親露政策」を含む「高宗 (朝鮮)」の記事については、「高宗 (朝鮮)」の概要を参照ください。
- 親露政策のページへのリンク