清からの独立:大韓帝国
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1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は日本の助力によって清への服属関係を廃棄し、独立国となった。 しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。 糟谷憲一は、「開国をもとめる欧米列強にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったと指摘している。 ただここでその契機に乗って日本が朝鮮の植民地化を考えていたとするならば、下関条約の時に朝鮮を割譲すれば良かったわけで、矛盾が生ずることになる。
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