閔妃殺害事件とは? わかりやすく解説

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乙未事変

(閔妃殺害事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 17:55 UTC 版)

乙未事変

Le Journal illustré誌の報道。
1895年10月8日
場所 朝鮮、ソウル、景福宮
北緯37度34分59秒 東経126度58分38秒 / 北緯37.583138度 東経126.977239度 / 37.583138; 126.977239座標: 北緯37度34分59秒 東経126度58分38秒 / 北緯37.583138度 東経126.977239度 / 37.583138; 126.977239
結果 閔妃の死亡
衝突した勢力

 大日本帝国

クーデター軍

李氏朝鮮

指揮官
三浦梧楼
岡本柳之助
杉村濬
佐瀨熊鐵
國友重章
中村楯雄
新納時亮
平山岩彦
安達謙蔵
楠瀬幸彦
李斗璜
李軫鎬
具然壽
兪吉濬
禹範善
趙羲聞
権東鎮
閔妃 
洪啓薰 
安駉壽
李敬植 
玄興澤
ウィリアム・ダイ英語版
戦力
日本公使館守備隊
訓練隊: 1,000名
日本人壮士48人
侍衛隊: 300–400
被害者数
宮中の死傷者多数
乙未事変
各種表記
ハングル 을미사변
漢字 乙未事變
発音 ウルミサビョン
日本語読み: いつびじへん
ローマ字転写:
英語
Eulmi sabyeon
Eulmi Incident
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乙未事変(いつびじへん)は、1895年10月8日三浦梧楼岡本柳之助らの計画に基づいて、日本軍士官が訓練してきた朝鮮人訓練隊と日本軍守備隊[1]、公使館警察官、大陸浪人ら日本人らが、王宮に乱入し、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう[2]

当時、朝鮮は日本・欧米列強等の帝国主義的進出に晒され、その中でどの国と結ぶかといった両班ら官僚層の主導権争いや、王妃一族と王の実父との権力争い等複雑な事情が絡む中、王妃が欧米に接近、勢力後退を怖れる日本によって実行された。事件後、政権は事実上日本の傀儡と化したが、諸外国の非難を受けた日本は日本側で処罰するとして関係者を帰国させたものの、彼らはいずれも証拠不十分で不問となり、朝鮮人側では3名ほどが王妃殺害の責任者とされ家族も連座のうえで処刑された[3]。処刑された朝鮮人については冤罪説が強く、その後、政情の変化により真の責任者の一人と名指された禹範善が亡命したが日本で暗殺され、その暗殺犯が朝鮮側からの要請で減刑されたことにより当時は日本政府・朝鮮王族側で決着とされた[4][5][6]。王妃を信頼していた高宗と、事変に加担した形の興宣大院君との間の断絶が決定的となった[7]

概要

朝鮮王高宗の父大院君
岡本柳之助

1894年3月28日、開化派の中心人物金玉均が、閔氏あるいは保守派の使嗾を受けた刺客洪鐘宇により回転式拳銃で暗殺された。同年5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府(第2次伊藤内閣)は、朝鮮への派兵を閣議決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、1894年7月23日、日本軍が景福宮を占領、高宗に日本への援軍要請を出させ、日清戦争の名分を手に入れた。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権とともに、開化派金弘集政権を誕生させた。日本の影響下、金弘集政権は日本亡命から帰国した朴泳孝も参加し、甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、それまで親日的な姿勢も示していた閔妃はロシア・アメリカ等他国との関係も強め、朴泳孝の失脚に成功、1895年7月6日に内閣改造を行い、政権を奪還した[8]

朝鮮各地で侵略姿勢を強める日本に対しアメリカ・ロシア等とも結んで掣肘しようとする姿勢を強めた閔妃勢力の復権は、日本や親日派勢力との対立を決定的にした。かくして、日本公使三浦梧楼・軍事顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる[8]。一方で大院君が軍事顧問岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたことや[9]10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったこと[10]で激昂した訓練隊は大院君を奉じ決起することとなった[10]という日本側主張を代表する一次資料も存在している。ただし、この時期、大院君が期待をかけていた孫が親日派政権に危うく処刑されかけ、大院君自身も日本兵に幽閉されるなど、生命も危険な状況にあった。後に三浦は回顧録に、天皇からどうやって大院君を使ったか、特約でもあったかと聞いて来いと言われたと米田侍従が言うので、三浦は、約束も何もない、そもそも政治には口を出さないはずだったのに、閔妃が口を出してきている、殿下はこれまで通り容喙しないようにと釘を刺しただけだと述べている[11]。なお、この回顧録には、最初「お上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云うお言葉であった」と米田侍従から伝えられたことを書いていたが、後の文庫本では削除されている(戦後、別の出版社からタイトルを変えて出された本では戻されている。)[11]

訓練隊の訓練は日本人士官の指導していた事から、その解散を告げられた時三浦の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだと、三浦は述べている[12]

1895年10月8日午前3時、日本軍守備隊・公使館警察官・日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮訓練隊が景福宮に突入、騒ぎの中で宮大臣の李耕稙が閔妃をかばおうとして腕を切り落とされた上でとどめをさされるように殺害、女官3名が殺害された。女官3名の中の一人か別の一人か不明であるが、閔妃も斬り殺され、遺体は焼却された[4][5][8]。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させようとしたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に完了させるはずだった作戦が破綻したとする説もある[13]。当時、王宮にいた外国人顧問らに日本軍兵士・日本人壮士らが目撃されたばかりか、最後に意気揚々と引揚げる日本人壮士らが朝市に出てきた民衆や急を聞いて駆けつけた他国外交官に目撃されている。

なお、日本公使館守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った[10]、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった[10]、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認した[14]などとする日本側の記録もある。

事件の背景と性格

親日政策時代の閔妃に壬午軍乱(1882年)を起こした大院君に対して、清の北洋大臣の李鴻章は清国の天津に監禁措置を行った。以後閔妃は親清政策へと転じたが、壬午軍乱の収拾において、大院君を政権から取り除くべきであるという点では、日清両国の合意は取れていた[15]。これ以降1895年の日清戦争敗北まで事実上朝鮮半島を支配した李鴻章は、当時の李氏朝鮮の国庫について、「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちしている。閔妃政権後の高宗政権においても、皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、1910年の日韓併合で国が滅びるときまで変わらなかった[16]

日清戦争で勝利し、清國の朝鮮に対する宗主権を排除した日本は、三国干渉を主導したロシア帝国との間で朝鮮半島の支配権を争うことになった[17]。閔妃は清国に代わり親露路線に転じ、日本軍の指導下にあった訓練隊を解散し「ロシアの教官による侍衛隊」に置き換えようとしたため日本公使館は危機感をもち[18]、壬午軍乱後に清国に3年拘束され帰国していた大院君に接近した。閔妃と大院君とは相互憎悪関係にあり、彼女の政権時代も李氏朝鮮には、「冒険的クーデター」と「政敵の処刑」が横行していた。彼女の死後の1899年8月に高宗が公布した「大韓国国制」第2条は、大韓帝国の政治は「今後も万世にわたり不変な専制政治」とし、李氏朝鮮王朝は最後まで立憲民主的な政治改革を行わなかった[16]

興宣大院君と閔妃の深い対立と暗殺合戦

事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、もともと朝鮮王朝に付随していた君主勢力の君権派と有力臣下の臣権派の対立、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本との覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。そのため、日本公使三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本の歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり[19]、歴史事典の多くもこの説を明記している[4][5]

事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、親日派の金弘集政権のもと、解散に不満をもった訓練隊の反乱という形で、訓練隊関係者3人を死刑とする形で判決が出ている[20]。角田房子は、彼らはたまたま取調べを当時受けていた為、濡れ衣を着せられたとみている[3]。1986年に高宗は露館播遷で日本から安全となったとき、朝鮮人側の真犯人を挙げている。

日本政府の対応・予審免訴

駐朝鮮公使三浦梧楼

事件2日後の1895年10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された[21]

三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられ、帰国後直ちに容疑者らは広島監獄署未決監に勾留され、予審の取調を受けた[21]

公使館付武官や守備隊長等の軍人8名に関しては、1896年1月14日の第五師管軍法会議において無罪判決が下された[22]。三浦ら外交官及び民間人の被告48名については、広島地方裁判所(予審判事吉岡美秀)において、検事の請求により謀殺罪及び兇徒嘯集罪等の嫌疑で予審に付されたが、同年1月20日に首謀と殺害に関しては[23]刑事訴訟法第165条に従い証拠不十分で全員免訴の予審終結決定がなされ、勾留者は放免となり、公判に付されることはなかった[24][25]

日本国内の裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)より、事件は朝鮮政府内のもので大院君に責任を帰する[26]内容で決着させようとする意向が日本政府へ伝えられていた[27]

事件当時、日本公使館一等領事であった内田定槌は、外務次官原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが朝鮮人守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している[28]

また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。

朝鮮政府の対応

朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃死亡を公表する前に、大院君は閔妃の王后位を剥奪し、平民に落とす詔勅を公布した[29](その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位[26])。

朝鮮の裁判では、李周会(前軍部協弁=次官)、朴銑(日本公使館通訳)・尹錫禹(親衛隊副尉)[20]の3人とその家族が、同年10月19日に絞首刑に処せられた[30]。襲撃者の日本人壮士の小早川秀雄の手記によれば、李周会は下手人だと自首し日本人壮士らを救おうとした義人だとしている。ところが、朴宗根によれば、李は終始無実を主張しており、李はたまたま家が王宮の近くだったので異変を知り来ただけで、李が反主流派であったため真相暴露を怖れた、金弘集にとってライバルの朴泳孝の残党だったので始末しようとしたといった説があるという。角田房子は、朴銑と尹錫禹は当時たまたま取調べを受けていた為濡れ衣を着せられたもの、李周会は壮士の予審記録に交流が見えるので当初は反乱参加者とみていたが、朴宗根の説から無関係の可能性もありうるとしている。[31]

高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した[32]

高宗は1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にもとった者が居た)と述べており[33]、また、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[34]禹範善(訓錬隊第二大隊長)・李斗璜(訓錬隊第一大隊長)・李軫鎬(親衛第二大隊長)・李範来(訓錬隊副隊長)・権濚鎮(当時警務使)の6名について、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている[35][36]

朝鮮側襲撃者のその後

禹範善は、純宗が放ったとされる刺客の高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され[37]、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下6名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している[38]

事件の首謀者・関係者

訓練隊及び朝鮮人関係者

訓練隊が警察と紛争を起こすなど荒れていたことや種々不満を持っていたことや、事件では訓練隊が大院君を奉じて宮中に突入、日本軍は異状に気づいて出動、訓練隊と侍衛隊の間に入って衝突防止にあたった、間もなく侍衛隊は逃げ出したため日本軍は訓練隊に任せて引揚げ、大院君が大官の任免や改革にあたっていると、日本では事件当初報じられていた[39]。ところが、次第に日本軍・日本人らによる襲撃であることが明らかになるに連れ、大院君が訓練隊の解散の反対を訴えるため王宮に来たところ侍衛隊に止められたため衝突となり、大院君が日本軍に協力を求めてきたため、日本軍が出動したという形に、責任を訓練隊に全く帰す形から訓練隊や大院君をより擁護し、また彼らに日本軍を正当化してもらう形に説明が変わっていった[40]

一方で、事件には実際には朝鮮人の訓練隊は関与していないという噂が直後からあった。しかし、事件後の朝に、訓練隊が武器を置いて帰順、整列しているのを目撃したとする証言もある。一方で、当時、漢城にいた英国領事は、確証はないものの現場にいた朝鮮人兵士なる者は日本人が変装したものではないかと思うと報告をしている。

訓練隊が居たのは事実であるが、襲撃は日本軍守備隊と日本人壮士によるものであり、訓練隊はわけもわからず引っ張りだされただけだとする見方もある。このとき、もともと閔妃の信任厚い訓練隊の連隊長の洪啓薫が小隊を率いて駆け付けたものの、小隊長ともども日本人士官に切り殺されたという話も伝わっていて、金文子は、大院君を担いでクーデターを起こしたとの責任を訓練隊に着せ、それに気づいた日本軍が駆け付けて事態を収拾したという体裁を三浦らがとろうとしたものと考えている[41]

日本人壮士

実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在しているものの、日本における歴史研究の多くは、三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする[19][4][5][8][42]堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである」としている[43]。これら壮士の多くは、国権拡張を主張する熊本国権党員で、日清戦争を機に党の領袖である安達謙蔵が社長となって漢城に設立した新聞社「漢城新報社」の社員であった[44]。日本人壮士の一人は、自分が殺害したにもかかわらず、他の者が我こそは王妃殺害犯とばかりに手柄顔で称し出しているとしている。

駐朝鮮日本外交官

事件当時、日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している[42]。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを責めることはできない」との内容の供述[45]を行っている[46]

また、領事官補だった堀口九萬一による事件翌日の1895年10月9日付書簡が2021年に発見され、そこに「(王宮への)進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と書かれていることが判明した[47]。広島地裁予審では堀口も被告の一人であったが免訴となり、以後外交官に復職、各国に赴任した[48]

日本側は当初、解散を伝えられた訓練隊が大院君を担いだクーデターという形で説明を行おうとしたが、日本人や日本軍の関与は大勢に目撃され、隠ぺいは困難となり、諸外国の非難を受けた。そこで、犯罪者を取調べ、日本側で処罰するとして、三浦公使他、日本軍軍人、大陸浪人らを日本に送還した。

大院君

大院君については、王宮行きに長時間抵抗し、それが真相発覚につながったこともあって、角田房子・金文子は、大院君は無理矢理、反乱に引っ張り出されただけとみている[49]。また実際に、襲撃後、大院君は日本側によって事態の正当化のために名をさんざん使われているが、新政権が事実上日本の傀儡化しただけで、大院君は何ら実質的なものは得ていない。

日本政府・日本軍中央

日本政府の直接的関与については確たる証拠がなく、秦郁彦は「証拠不足」との見解を示している[50]

近年の学説では、崔文衛は、そもそも三浦悟楼は井上馨の希望により後任公使となったが、軍人出身で自ら外交はズブの素人として一時は就任を断るほどであり、その後、説得され赴任するが、西園寺の外交慣例に反するとの注意にもかかわらず井上は漢城に17日間もとどまって三浦と打ち合わせを行い、さらに今度は日本軍守備隊の指揮権を要求して西園寺の反対を受けながら、結局は伊藤内閣で認められており、クーデターは日本政府の全面的ではないとしても広範な支持を得た既定方針であることを示唆、元勲の井上が自身の悪評を避けるため三浦にクーデター役を引き受けさせたのではないかとして、前任公使井上馨の主謀論をとる[51]

金文子は、電信線網を返還しようとして井上は「更迭」されたのであり、参謀次長の川上操六大本営の意を受けて、戦略的に朝鮮における電信線網の維持・確保しておくために後任として三浦が送り込まれたとする説をとる[52]。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑している旨が記されている(10月19日付)[28]

福澤諭吉関与の陰謀論

安川寿之輔は、「閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布」されたと主張し、「そうした情報操作には福澤諭吉の関与があった」としている[53]。安川は、事件後に日本を非難するアメリカ世論をなだめるために、閔妃が惨状虐なる陰謀を逞しくしていたという物語を、福沢が慶應義塾関係者に英語で作らせ、『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者に渡すことまでしたという[53]

目撃証言

事件時、高宗は景福宮中の乾清宮にいたと伝えられるが、日本側史料によると、さらに普段はその中の長安堂が国王の居間、坤寧閣が王妃の居間で、王太子夫妻が居るのは坤寧閣裏手の別棟であり、王妃は長安堂から引き出され後、殺害されて坤寧閣の奥に移され、さらに夾門から運び出されて、そばの小山を周った脇で焼棄てられたとされている[54][55]。また、日本人襲撃者側の主張では、王らと居たところから王妃を引きずり出した、王には経緯を払って後宮に捜しに行った等まちまちである。

純宗・高宗ら朝鮮王族

閔妃の子である純宗は、禹範善を「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」とし、自身が目撃したと語っている。日本側史料においても、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と禹範善自身がが閔妃を殺害したと漏らしたとするものもある[38]。もっとも、信頼できる資料や証言に純宗が殺害現場にいたとするものはあまりなく、これは訓練隊第二大隊長である禹範善が反乱を起こした訓練隊を率いているのを見たとか、禹範善が責任者であったとの意と考えられる。また現場近くにいた高宗は、「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にはずれた者が居た)と語っており、露館播遷により日本の圧力を逃れたときには、それまで犯人とされていた者の内2名を濡れ衣であるとし、仇をとるべき敵として禹範善ら様々な部署の者6名を挙げている[33]。1907年には、純宗は閔妃殺害の仇である禹の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事変が解決し、両国間数年の疑団も氷解すると日本に要請してきており、反閔妃派の興宣大院君も死亡していたため、減刑措置が和解案として実行されている[6]

外国人

このあたりの経緯についてはイザベラ・バードの『朝鮮紀行』にも詳述されている[56]。景福宮の警護にあたっていた侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のウィリアム・ダイ(William McEntyre Dye)であったが、「When he was in Korea, the assassination of Empress Myeongseong occurred. He received a report from Lee Hak-gyun; however, it was too late.(韓国にいたとき、明成皇后の暗殺が起こりました。彼はイ・ハクギュンから報告を受けたが、遅すぎました。)」とあるように目撃していない。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発信したが、東京でさし止められていた、と報じた。ロシア人の御用電気技師アレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)は事件を直接目撃した。それによれば、日本人壮士らが王妃のいる後宮を襲撃、女官らを引きずり出しては1階窓から投げ落とし、そこの前庭では日本人士官に率いられた日本兵が周りを囲んで見張りをしていたという。

朝鮮人内部犯行説をとなえる人たちが現れたが歴史学界は下記をもって否定している 事件の2日後の1895(明治28)年10月10日に三浦梧楼西園寺公望外務大臣臨時代理に宛てたつぎのような電報(『日本外交文書』第28巻第1冊所収)を引用し、歴史学者は真っ向から反論している。

 ・・・・・過激のことは総て朝鮮人にてこれを行はわしめ、日本人はただその声援をなすまでにて手を下さざる約束なりしも、実際に臨んで朝鮮人躊躇してその働き充分ならざりし前、時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり、もっとも右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども、その場に朝鮮人居りし由なれば漏れ聞きしことなきを防ぐ可からず・・・・・。朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり、・・・・・この二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり」

 つまり、①もともとは閔妃殺害を朝鮮人に行わせ、日本人は直接には手を下さない計画だった。しかし、いざとなると朝鮮人が実行を躊躇ったので時機を逃さないよう数名の日本人が殺害に及んだと聞いている。②この件は極秘とし、朝鮮政府からは日本人が殺害に関与していないという証明書を取った。③外国人に対しては水掛け論に持ち込むことにした、というのである。


事件後と影響

露館播遷

事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まるなか、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与した、カウンタークーデターとしての春生門事件が発生。翌年に高宗がロシア大使館で政務を行うようになる露館播遷へとつながっていく。

大院君と高宗の決定的亀裂

この事件を機に、殺害に関与した興宣大院君と高宗の親子間の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。高宗は3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなった際に略式の葬儀しか行わず、高宗自身は父親である興宣大院の葬儀に参列さえしなかった[7]

「日本側実行犯」の子孫の謝罪

2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会の目的は、日本側実行犯の後裔及び関連記録の調査と殺害事件の真相究明とされる[57]。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『テレメンタリー』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」と題して放送された。

2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座[58]して謝罪する姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[59]

このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。

犯行に使用されたとみられる凶器の市民団体の返還要求

安重根の100年目の命日にあたる2010年3月26日に曹渓宗中央信徒会と文化財返還事業を行う市民団体が発足した韓国の市民団体「肥前刀還収委員会」(崔鳳泰弁護士、ヘムン僧侶)は、櫛田神社が所蔵する、玄洋社の藤勝顕が1908年に奉納した肥前刀について、「乙未事変は韓日間の不幸な歴史の始まりだった。韓日間の恨みを触発した事件に直接使用された犯行道具がいまだ日本の神社に保管されているのは懸念すべきことだ」との声明を発表し、韓国国民の民族感情を刺激する凶器を日本は正しく処分すべきと促した[60]。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐」と記され、また、神社には皇后をこの刀で切りつけた旨を記した文書が保管されているとし、委員会は「1895年の乙未事変から100年余りの間に発生した韓日の悲劇的な業を象徴するこの刀を、処分するか韓国に戻すべきとの立場だ。犯人が皇后殺害にこの刀を使ったと自白したにもかかわらず、日本の神社に寄贈されたまま民間が所有しているのは法的に問題だ」と主張しているという[61]

脚注

出典

  1. ^ 参謀本部が指揮を取る京城守備隊とは別の部隊であり、日本公使館が指揮を取る警備隊
  2. ^ 閔妃(びんひ)暗殺事件国立公文書館
  3. ^ a b 『閔妃暗殺』新潮社、1988年1月20日。 
  4. ^ a b c d 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』、872,983頁。「三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊・日本軍守備隊・日本警察官・日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。」 
  5. ^ a b c d 「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)
  6. ^ a b 「李朝滅亡」p58,片野次雄 · 1997年 「朝鮮王族も一枚岩でなく、双方の派で殺し合いまでしていたほど反明成皇后である興宣大院君、表立って父を批判出来ないが、明成皇后への身分下げ措置等には反対する高宗と純宗とに分かれていた。1898年に大院君が死亡するとそれまで明成皇后と大院君の指示を受けていただけの高宗が実権を握るようになる。1903年に明成皇后殺害した朝鮮人の一人である禹範善が暗殺された。1907年8月31日付往電第31号によると、明成皇后の息子の純宗は明成皇后殺害の犯人である禹範善の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとして主張していた。反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、双方で減刑措置が和解案となり、主犯は当初死刑判決だったものの、無期懲役で確定となり、無期にもかかわらず5年間の懲役で朝鮮半島に返される措置を受けている。」
  7. ^ a b 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照
  8. ^ a b c d 山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39
  9. ^ p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  10. ^ a b c d p491 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  11. ^ a b 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日、273-276頁。 
  12. ^ 黒竜会 編『東亜先覚志士記伝.上巻』昭和8-10、黒竜会出版部、p525、国会図書館デジタル・コレクション= https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1242345&contentNo=296&outputScale=4
  13. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308
  14. ^ p493 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  15. ^ 海野福寿『韓国併合』岩波書店〈岩波新書〉、1995年5月 p50
  16. ^ a b 한겨레. “朝鮮はわずか「30年」で滅びた”. japan.hani.co.kr. 2024年3月8日閲覧。
  17. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24
  18. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-p25
  19. ^ a b 小松裕『「いのち」と帝国日本(全集日本の歴史 第14巻)』小学館、2009年、240頁。「閔妃殺害事件に関するこれまでの研究史を見ると、ほとんどが三浦梧楼首謀説をとっている。」 
  20. ^ a b GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日  號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
  21. ^ a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
  22. ^ 『官報』1896年1月23日彙報・官庁事項「軍法会議判決」
  23. ^ 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
  24. ^ 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
  25. ^ 杉村濬『明治廿七八年在韓苦心録』杉村陽太郎発行、1932年、185-199頁
  26. ^ a b 1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』
  27. ^ アジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700 明治28年12月26日付機密第53号
  28. ^ a b 『原敬関係文書』第1巻
  29. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
  30. ^ 高宗は露館播遷後に朴銑、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸冤이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 内閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
  31. ^ 『閔妃暗殺』新潮社、1988年6月25日、339-343頁。 
  32. ^ アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号
  33. ^ a b 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
  34. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 3번째기사
  35. ^ 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
  36. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 6번째기사
  37. ^ アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
  38. ^ a b 1907年8月31日付・往電第31号
  39. ^ 「朝鮮時事 十月八日 今朝の一大事変」『朝日新聞』1895年10月16日、朝刊。
  40. ^ 「朝鮮変乱に関する一説」『朝日新聞』1895年10月25日、朝刊。
  41. ^ 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日。 
  42. ^ a b 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87
  43. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-25
  44. ^ 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日、381-382頁。 
  45. ^ 伊藤博文編『秘書類纂 朝鮮交渉資料 中巻』秘書類纂刊行会、1936年、p.526-p.535(1970年に原書房より復刻)
  46. ^ 原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書)
  47. ^ 永井靖二. “外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年2月8日閲覧。
  48. ^ 松村正義 (2010年). “決断の時・知られざる外交官の舞台 第2回「中南米との文化外交に尽力した堀口九萬一 『外交』Vol.2” (PDF). 外務省. 2022年2月8日閲覧。
  49. ^ 『閔妃暗殺』新潮社、1988年1月20日、311-312頁。 
  50. ^ 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる - 朝日新聞2008年6月28日付
  51. ^ 崔文衛『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年
  52. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.98-p.141,p.358,p.359
  53. ^ a b 安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193
  54. ^ 『機密第36号』、『機密第51号』及び『附属地図』
  55. ^ 『朝鮮王妃と日本人』高文研、2009年2月15日、巻頭カラー図版裏面頁。 
  56. ^ 「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)p.353
  57. ^ 2005年5月9日 朝鮮日報
  58. ^ 同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。
  59. ^ “明成皇后殺人犯の子孫が謝罪”. 中央日報. (2005年5月10日). https://japanese.joins.com/JArticle/63394 
  60. ^ 明成皇后殺害凶器「肥前刀」の還収委員会発足Wow Korea,2010/03/26 17:43配信YONHAPNEWS.
  61. ^ 明成皇后殺害凶器の肥前刀、日本の神社に返還要求へ」2010.3.25 20:26,聯合ニュース

※なお、『高宗実録』は朝鮮総督府によって編修されたもので、編纂委員には事件の容疑者だった菊池謙譲の名もある。


参考文献

資料・記録

  • 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年・1895年)
  • イザベラ・バード『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』時岡敬子訳、講談社学術文庫、1998年、 ISBN 4061593404 
  • イサベラ・バード『朝鮮奥地紀行』全2巻、朴尚得訳、平凡社東洋文庫、1994年
  • Mackenzie, Frederick Arthur (1908). The tragedy of Korea(フレデリック・アーサー・マッケンジー『朝鮮の悲劇』渡部学訳注、平凡社東洋文庫222、1972年、ISBN 4-256-80222-3
  • ロシア参謀本部中佐カルネイェフ「1895-1896年の南朝鮮旅行」『朝鮮旅行記』ゲ・デ・チャガイ編・井上紘一訳、平凡社東洋文庫、1992年、ISBN 4582805477
  • 新聞集成明治編年史編纂會編『新聞集成明治編年史 第九巻』林泉社、1940年
  • 市川正明編『日韓外交史料5 閔妃殺害事件』原書房(明治100年厳書288)、1981年
  • 広瀬順晧編・監修『近代外交回顧録 第5巻』近代未刊史料叢書5、ゆまに書房、2000年、ISBN 4897149908
  • 有馬頼寧関係文書目録」国立国会図書館専門資料部、1989年1月、ASIN: 4875822294
  • 「朝鮮王妃事件関係資料」憲政史編纂会編、国会図書館憲政資料室(マイクロフイルム 整理番号546)
  • 「法制局参事官石塚英蔵傭聘ニ付朝鮮政府ヨリ依頼ノ件」朝鮮問題5(公信類) 陸奥宗光関係文書、国会図書館憲政資料室(資料番号77-2)

研究

韓国

  • 黄玹「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」朴尚得訳、国書刊行会、1990年、ISBN 4336031584
  • 黄玹「訳注梅泉野録」全3巻、朴尚得訳、文学と知性社 (mun-hak-kwa ji-seong-sa) 、 ISBN 89-320-1565-1
  • 강준만,《韓国近代史散歩 1》 (인물과사상사, 2007)
  • 黄玹,《梅泉野録》 (허경진 옮김, 한양출판사, 1995)
  • 朴殷植,《韓國痛史》(김승일 역, 범우사. 1997)
  • 정용화, <문명의 정치사상: 유길준과 근대한국> (문학과지성사, 2004)

関連項目

外部リンク




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