閔妃殺害事件とは? わかりやすく解説

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乙未事変

(閔妃殺害事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/27 14:44 UTC 版)

乙未事変

Le Journal illustré誌の報道。
1895年10月8日
場所 朝鮮、ソウル、景福宮
北緯37度34分59秒 東経126度58分38秒 / 北緯37.583138度 東経126.977239度 / 37.583138; 126.977239座標: 北緯37度34分59秒 東経126度58分38秒 / 北緯37.583138度 東経126.977239度 / 37.583138; 126.977239
結果 閔妃の死亡
衝突した勢力

 大日本帝国

クーデター軍

李氏朝鮮

指揮官
三浦梧楼
岡本柳之助
杉村濬
佐瀨熊鐵
國友重章
中村楯雄
新納時亮
平山岩彦
安達謙蔵
楠瀬幸彦
李斗璜
李軫鎬
具然壽
兪吉濬
禹範善
趙羲聞
権東鎮
閔妃 
洪啓薰 
安駉壽
李敬植 
玄興澤
ウィリアム・ダイ英語版
戦力
日本公使館守備隊
訓練隊: 1,000名
日本人壮士48人
侍衛隊: 300–400
被害者数
宮中の死傷者多数
乙未事変
各種表記
ハングル 을미사변
漢字 乙未事變
発音 ウルミサビョン
日本語読み: いつびじへん
ローマ字転写:
英語
Eulmi sabyeon
Eulmi Incident
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乙未事変(いつびじへん)は、1895年10月8日三浦梧楼岡本柳之助らの計画に基づいて、日本軍士官が訓練してきた朝鮮人訓練隊と日本軍守備隊[1]、領事館警察官、大陸浪人ら日本人らが、王宮に乱入し、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう[2]

当時、朝鮮は日本・欧米列強等の帝国主義的進出に晒される中、国の命脈を保つにはどの国と結んぶべきかを巡る両班官僚層の主導権争いや、王妃一族と王の実父との権力争い等複雑な事情が絡む中、王妃が欧米に接近、勢力後退を怖れる日本によって王妃暗殺が実行された。事件後、政権は事実上日本の傀儡と化したが、諸外国の非難を受けた日本側は領事裁判権(いわゆる治外法権)を利用し帰国させた日本人関係者をいずれも証拠不十分で無罪ないし免訴とし、朝鮮側では3名ほどが王妃殺害の責任者とされ処刑された[3]。処刑された朝鮮人については冤罪説が強く、その後、政情の変化により真の責任者の一人と名指された禹範善が日本に亡命したものの朝鮮人に暗殺された。その暗殺犯らは王太子純宗からの要請もあって一部減刑されはしたが、日本・朝鮮両国の力関係もあって事件自体は事実上有耶無耶となった[4][5][6]。また、王妃を信頼していた高宗の、日本政府並びに事変に加担した形の興宣大院君への不信が決定的となった[7]

概要

朝鮮王高宗の父大院君
岡本柳之助

1894年3月28日、開化派の中心人物金玉均が、閔氏あるいは保守派の使嗾を受けた刺客洪鐘宇により回転式拳銃で暗殺された。同年5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発。農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府(第2次伊藤内閣)は、朝鮮への派兵を閣議決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に日本の意向に沿った内政改革を求めたが、受け入れられず、1894年7月23日、日本軍が景福宮を占領、高宗に日本への援軍要請を出させ、日清戦争を起こす名分を手に入れた。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権とともに、開化派金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本亡命から帰国した朴泳孝も参加し、日本の圧力の下で甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、国際法上は朝鮮は清から独立した形となったものの、実態は日本の圧倒的な力関係の下にあった。しかし、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、それまで親日的な姿勢を示していた閔妃はロシア・アメリカ等他国との関係も深め、また朴泳孝の失脚に成功し、1895年7月6日に内閣改造を行い、政権を奪還した[8]

朝鮮各地で侵略姿勢を強める日本に対しアメリカ・ロシア等とも結んで掣肘しようとする姿勢を強めた閔妃勢力の復権は、閔妃と日本及び親日派勢力との対立を決定的にした。かくして、日本公使三浦梧楼・宮内府顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる[8]。一方で、大院君が軍事顧問岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたこと[9]や、10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったことで激昂した訓練隊が大院君を奉じ決起することとなった[10]とする日本側史料も存在する。ただし、この時期、大院君が王位継承の可能性もあって期待をかけていた孫が親日派政権に危うく処刑されかけ、大院君自身も軟禁状態にあるなど、大院君らは生命も危険な状況にあった。後に三浦は回顧録に、天皇からどうやって大院君を使ったか、特約でもあったかと聞いて来いと言われたと米田侍従が言うので、三浦は、約束も何もない、そもそも政治には口を出さないはずだったのに、閔妃が口を出してきている、殿下はこれまで通り容喙しないようにと釘を刺しただけだと述べている[11]。なお、この回顧録には、最初「お上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云うお言葉であった」と米田侍従から伝えられたことを書いていたが、後の文庫本では削除されている(戦後、別の出版社からタイトルを変えて出された本では戻されている。)[11]

訓練隊の訓練は日本人士官の指導していた事から、その解散を告げられた時三浦の頭に、時期が切迫し一日も猶予を許さぬ、という考えが閃いたのだと、三浦は述べている[12]

1895年10月8日午前3時、日本軍守備隊・領事館警察官・日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮訓練隊が景福宮に突入、騒ぎの中で宮内大臣の李耕稙が閔妃をかばおうとして立ちふさがったために腕を切り落とされた上でとどめをさされるように殺害され、女官3名が殺害された。李耕稙については、宮本竹太郎少尉が拳銃で撃ち、平山岩彦が斬り殺したとする説もある[13]。資料により女官3名の内の一人とも3名とは別ともされるが、閔妃も斬り殺され、遺体は焼却された[4][5][8]。この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させようとしたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に完了させるはずだった作戦が破綻したとする説がある[14]。当時、王宮に居合わせた国人顧問らに日本軍兵士・日本人壮士らが目撃されたばかりか、最後に意気揚々と引揚げる日本人壮士らが朝市に出てきた民衆や急を聞いて駆けつけた他国外交官らに目撃されている。事件後、国王高宗と王太子は日本側による毒殺を怖れ、当初は西洋人宣教師らの差し入れる卵などで命をつなぎ[15]、その後も露館播遷までアメリカ、ロシアの公使館から鍵のかかった箱で食事の差入を受けたりもしたという[16]

なお、日本公使館守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った[10]、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった[10]、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認した[17]などとする日本外務省側の資料もある。

背景と性格

時代背景

李氏朝鮮では清国との宗主関係に基づく若干の交流を除き、鎖国政策がとられていたが19世紀後半から武力を背景とした日本・欧米等諸列強の開国要求を受け、領事裁判権(いわゆる治外法権)を認め、関税自主権を放棄するなど、帝国主義的進出に晒されることになった。なかでも地の利を生かした日本人商人の進出は著しかったが、彼らの中には治外法権を悪用して悪徳商法を行う者[18]、日本の武力を背景に現地の窮状等も無視して自身らの都合に合わせた要求をする者がいて、また、勝手に朝鮮人漁師の漁場に入り込み乱獲する日本人漁業業者がいる等、日本への民衆の反感は募った[19][20]。また、列強は近代化の名のもとに自らの利権獲得のため鉄道・電信・鉱山等の開発を進めた[21][22]が、これらの契約条件はしばしば武力を背景に、あるいは朝鮮側の未経験・知識不足につけ込む形で列強側に不当に有利なものであった。また、帝国主義のこの時代は、これらの警護を名目に列強は軍隊を駐屯させ、沿線の土地の利用権・開発権・所有権等を得、さらには開発費用の担保として各種徴税権を握ることが頻繁であった。

親日政策時代の閔妃に壬午軍乱(1882年)を起こした大院君に対して、清の北洋大臣の李鴻章は清国の天津に監禁措置を行った。以後閔妃は親清政策へと転じたが、壬午軍乱の収拾において、大院君を政権から取り除くべきであるという点では、日清両国の合意は取れていた[23]。これ以降1894年からの日清戦争で追い出されるまで朝鮮半島に圧倒的力を持つことになった李鴻章は、当時の李氏朝鮮の国庫について、「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちしている。列強諸国による様々な利権や条約規定等を利用しての収奪による税収の伸び悩み、近代化費用のための諸外国からの借款の返済に加え、宮廷の浪費に苦しみ、皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、1910年の日韓併合で国が消滅するときまで変わらなかった[24]

1894年、甲午農民戦争が起こる。朝鮮政府は一時、清国に支援を要請する。清国の出兵に対抗するため、日本は公使館・居留民保護を理由に出兵、日本軍の連絡に使用するため電信線・設備網を敷設した。しかし、反乱農民軍と和約が成り、朝鮮政府は清国軍と日本軍に撤兵を要求。ところが、日本側はこれを拒否、内政改革を朝鮮に要求する。日本は清国にも同調を求めたが拒否される。

日本公使大鳥圭介は電信線と日本公使館の警備を理由に引続き朝鮮に駐留させていた日本軍を使って朝鮮王宮を襲撃し占拠、国王を脅迫して、今度は大院君を引っ張り出して親日派政権を立てさせ、朝鮮に代わって日本軍が清国軍を朝鮮から追い出すよう支援要請を朝鮮政府に出させた。日本は、清国軍相手の交戦開始名目を得るとともに、朝鮮政府に食糧・物資・人馬等の徴発も認めさせた[20]。日本軍は、軍律を定めて電信網の切断・破壊、その他日本軍の妨害をする行為を死刑以下の刑に定め、それによって処刑される者が相次ぐことになった[20]。さらに、朝鮮政府に戦争費用を徴収し日本軍に拠出させるために、全州の自治権を得て税金の拠出を拒んだ東学党らから成る農民軍を朝鮮官軍とともに攻撃、農民軍の敗北後も多くの逃亡者を処刑した。このときの日本軍・朝鮮官軍による残党狩りは大量かつ残虐だったといい、このため、日清戦争で最も多く人が死んだのは、日本人でも清国人でもなく朝鮮人だとされる[18]

事件背景

甲申政変後も日本の政治勢力は後退しても経済勢力は伸長していた[20]が、さらに日清戦争が有利に進んだことや親日派官僚を政権に入れさせたことにより、日本の利権は他の列強諸国に対し圧倒的になっていき、さらに日清戦争で勝利し清國の朝鮮に対する宗主権を排除すると、日本はますます影響力の行使が可能となった[22]。これに不満を持つロシアはフランス、ドイツを誘って三国干渉を実施、アメリカもからんで朝鮮半島における支配的立場を争うことになっていく[25]

ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉の成立は日本の威信を失墜させる。日清戦争で日本は清国から多額の賠償金を得たが、これは国際法上は日本固有の権利であり必ずしも朝鮮に分与する必要のあるものではないものの、朝鮮の要請によって参戦あるいは戦争費用を朝鮮に出させた以上は、朝鮮にも適額を分与すべきだという主張は論理的にありえた。実際に、三国干渉の成立による日本の威信低下の中で、井上馨は、果たしてどこまで本気であったかはともかくとして、親日派官僚層や閔妃らを日本側につなぎとめるため、朝鮮に数百万円を分与し電信線の所有権も朝鮮政府側に引き渡す旨の申し出を行っている。しかし、この案に日本政府の承諾は容易に出ず、結局は議会の承認が得られた場合といった条件をつけている。朝鮮側はむしろこの空手形のような話で日本への不信や警戒感を高めていく。日本の圧倒的立場に不満を持つ諸外国はそれぞれの贔屓に立つ官僚らや閔妃に接近、親密さを深めていく。また、このような中、親日派官僚の朴泳孝が失脚、井上馨は日本に戻ることになった[15]

閔妃は清国に代わり親露路線に転じ、また、日本軍の指導下にあった訓練隊についてはこれを解散し、アメリカの教官の訓練による「侍衛隊」に置き換えようとしたため、侵略強化と政権傀儡化を図る日本公使館は危機感をもち[26]、壬午軍乱後に清国に3年拘束され帰国していた大院君を再び利用することとした。

事件の背景には、日清戦争中から朝鮮国内への帝国主義的進出と利権獲得を進めて来たものの三国干渉により威信を失った日本が朝鮮における地位を取り戻そうとする動きに、興宣大院君と閔妃の権力闘争の歴史が絡んでいる。李氏朝鮮では「冒険的クーデター」と「政敵の暗殺・処刑」が横行、大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、閔妃と大院君とは20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげ、その相互憎悪と対立は広く官民にも知られるところであった。もともと朝鮮王朝では君主勢力の君権派と有力臣下による臣権派の対立、王妃ら閔氏一族と国王の父大院君の権力闘争、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、日本との覇権争いが続いていたが、さらに当時は朝鮮半島をめぐる日本・西洋列強の利権争い、とくに日清戦争後の日本とロシア帝国・アメリカの主導権争いが主となっていた。その結果、親露派の傾向を強めていた閔妃を排除するために、日本公使三浦梧楼らが主導したもので、大院君と閔妃の対立を利用あるいは対立の結果と見せかけたクーデターとする説が、日本の歴史研究のほとんどで採用されているとの見解がある[27]。歴史事典の多くもこの説を明記している[4][5]

日本政府の対応・予審免訴

駐朝鮮公使三浦梧楼

事件2日後の1895年10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された[28]

当時は日鮮修好条規により朝鮮に日本人への裁判権がなく、三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられ、帰国後直ちに容疑者らは広島監獄署未決監に勾留され、予審の取調を受けた[28]。壮士らが広島に到着した時、日本では迎えに大勢の者が来て、さながら凱旋将軍のような歓迎ぶりだったという[19]

軍人と民間人についてともに審理すべきではないかとの意見もあったが、結局別々に審判されることになった。公使館付武官や守備隊長等の軍人8名に関しては、1896年1月14日の第五師管軍法会議において無罪判決が下された[29]。隊長は初めから閔妃暗殺の計画に与っていたわけではないので謀殺にはならない、三浦の指示に従っただけなので擅権の罪にはならない、部下らは隊長の指示に従っただけなので擅権の罪にはならないという論理であった[30]。三浦ら外交官及び民間人の被告48名については、広島地方裁判所(予審判事吉岡美秀)において、検事の請求により謀殺罪及び兇徒嘯集罪等の嫌疑で予審に付されたが、同年1月20日に首謀と殺害に関しては[31]刑事訴訟法第165条に従い証拠不十分で全員免訴の予審終結決定がなされ、勾留者は放免となり、公判に付されることはなかった[32][33][34]。このとき、三浦らが釈放されて広島から東京に戻ってきたとき、再び凱旋将軍のように出迎えたという。

日本国内の裁判にあたっては、朝鮮政府(金弘集政権)より、事件は朝鮮政府内のもので大院君に責任を帰する[35]内容で決着させること、たまたま取り調べていた2名を閔妃暗殺の犯人とする意向が日本政府へ伝えらた[36]

事件当時、日本公使館一等領事であった内田定槌は、外務次官原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが日本軍守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している[37]

また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。

朝鮮政府の対応

朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃死亡を公表する前に、大院君は閔妃の王后位を剥奪し、平民に落とす詔勅を公布した[38](その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位する[35])。

事件後に行われた朝鮮国内の裁判では、親日派の金弘集政権のもと、解散に不満をもった訓練隊の反乱という形で、3名を死刑とする形で判決が出ている[39]。李周会(前軍部協弁=軍部次官)、朴銑(日本人による被傭者)・尹錫禹(事件時の訓練隊将校[15]、判決時は訓練隊と侍衛隊を統合した親衛隊の副尉)[39]の3人が、同年10月19日に絞刑に処せられた[40]。この朝鮮側の判決では、朴銑が閔妃の髻をつかんで引きずり出し、殺害したとされている。日本側の外交文書によれば、たまたま朴銑と尹錫禹を取り調べているので彼らを犯人として幕引きを図ろうとの申し出が金弘集側からあったとしている[3]。襲撃者の日本人壮士の小早川秀雄の手記によれば、李周会は下手人だと自首し日本人壮士らを救おうとした義人だとしている[41]。ところが、朴宗根によれば、李は終始無実を主張しており、李はたまたま家が王宮の近くだったので異変を知り来ただけで、李が日本側の事実上傀儡となった金弘集にとってライバルの朴泳孝の残党であったため冤罪を着せられたとしている[41]。角田房子は、朴銑と尹錫禹は間違いなく冤罪とし、李周会は壮士の予審関係文書に交流が見えるので当初は反乱参加者とみていたが、朴宗根の説から無関係の可能性もありうるとはしている[1]。片野次雄は、李周会は日本人らの大院君引張り出しに同行した人物で口封じを兼ねて処刑されたとしている[21]

高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した[42]。高宗は1906年、韓国統監代理長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にもとった者が居た)と述べ、朝鮮政府臣下中にも反乱加担者がいたとしている[43]。また、朴銑と尹錫禹を最終的に冤罪として賠償を行い、閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[44]禹範善(事件時訓錬隊第二大隊長)・李斗璜(事件時訓錬隊第一大隊長)・李軫鎬(当時親衛第二大隊長)・李範来(訓錬隊副隊長)・権濚鎮(当時警務使)の6名について、「王妃を殺害した張本人である」として避難先のロシア公使館から処刑を勅命で命じている[45][46]

朝鮮側襲撃者のその後

日本公使と訓練隊による襲撃事件であることが発覚し、罷免されたものの日本に逃れていた禹範善は、純宗が放ったとされる刺客の高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され[47]、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下6名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している[48]

事件の首謀者・関係者

訓練隊及び朝鮮人関係者

訓練隊は巡検と揉め死傷者を出すなど問題も起きていたが、これは閔妃が訓練隊を解散する口実にするため教唆したものだとの説があり[49]、事件はそれに怒りを持った、あるいは閔妃の悪政に憤った訓練隊が大院君を奉じて宮中に突入、日本軍は異状に気づいて出動、訓練隊と侍衛隊の間に入って衝突防止にあたった、間もなく侍衛隊は逃げ出したため日本軍は訓練隊に任せて引揚げ、大院君が大官の任免や政務にあたっている[50]、あるいは、閔氏勢力が回復してきたので大院君が坐して自滅するよりはとこれに乗った[51]などと、事件当初は日本では報じられた。ところが、次第に日本軍・日本人らによる襲撃であることが明らかになるに連れ、大院君が訓練隊解散の反対を訴えるため訓練隊とともに王宮に来たところ侍衛隊に止められたため衝突となり、大院君が日本軍に協力を求めてきたため、日本軍が出動したという形に、責任を大院君・訓練隊と閔妃に帰す形から、訓練隊・大院君をより擁護し、また彼らによって日本軍を正当化する根拠にさせる形に説明が変わっていった[52]

一方で、事件には実際には朝鮮人の訓練隊は関与していないという噂が直後からあった[53]。しかし、事件時朝に訓練隊40名が武器を置いて整列しているのを見たとの証言がある[53][16]。一方で、当時、漢城にいた英国領事ヒリア-は、確証は出せないものの現場にいた朝鮮人兵士なる者は日本人が変装したものではないかと思うと北京駐在英公使オコーナーに報告をしている[16]

一般には、訓練隊が現場に居たのは事実であり、第一訓練隊が周囲を包囲し、第二訓練隊が宮殿内に乱入し侍衛隊と戦闘したなどと報じられている[50]。しかし、襲撃は日本軍守備隊と日本人壮士によるものであり、訓練隊はわけもわからず引っ張りだされただけだとする見方もある[16][15]。このとき、事件後間もない時点で日本公使館がまとめた資料ではもともと閔妃の信任厚い訓練隊の連隊長の洪啓薫が小隊を率いて駆け付けたものの、小隊長ともども日本人士官に切り殺されたという話も伝わっている[3]。事件後間もない時期の日本紙の取材報道では、反乱訓練隊の鎮圧制止にあたり銃撃を受け反乱側に乱戦の中で刺し殺されたと、訓練隊では語られているとしている[54]。刺し殺したのは朴銑(訓練隊員ではない)と伝える日本紙記事もある。金文子は、大院君を担いでクーデターを起こしたとして責任を訓練隊に着せ、それに気づいた日本軍が駆け付けて事態を収拾したという体裁を三浦らがとろうとしたものと考えている[55]。洪啓薫はかつて閔妃を救出したこともあり王党派で名高く、親日派によって創設され日本人士官に訓練され親日派が多いとみられる訓練隊の中で選抜した人員で信頼できる小隊を編成していた[54]。事件後間もない時期に日本紙は、洪は、事件時には自身の小隊を率いて訓練隊の鎮圧にあたり、銃撃を受けて負傷を追ったが怯むことなく戦い、数人相手の乱戦の中で刺し殺されたと、訓練隊への取材からとして報じている[54]

日本人壮士

実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の説が存在しているものの、日本における歴史研究の多くは、三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする[27][4][5][8][56]堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである」としている[57]。これら壮士の多くは、国権拡張を主張する熊本国権党員で、日清戦争を機に党の領袖である安達謙蔵が社長となって漢城に設立した新聞社「漢城新報社」の社員であった[58]。日清戦争時に、日本軍に従軍し、日本人士官の承認を得て2回にわたって罪のない中国人商人22人を斬り殺した記者団がいたことが日本人外交官から報告されているが、これは彼らとみられている。

閔妃襲撃時の壮士らの指揮は柴四朗がとったとされる[16]。壮士には朝鮮に商売をしに来た日本人商人もいて、その一人である売薬商の寺崎泰吉(別名:高橋源次)は、「美人を殺し友人の一人の話ではそれが閔妃だというが、それは疑念に耐えない」と当初言っていたが、後には、殺害したのは自分だが、他の者が我こそは王妃殺害犯とばかりに手柄顔で名乗り出ていると言い出している[59]。他にも閔妃は初め日本陸軍士官に斬られ次いで雑貨商の中村楯雄に斬られたとする内田領事の報告や、平山岩彦や田中賢造をあげる説などがある[59]。2名の領事警察官も誰かを殺傷した嫌疑があるとされる[15]。壮士の一人である藤勝顕は、閔妃を斬った刀なるもの九州の櫛田神社に奉納している[60]。角田房子は、手柄争いに加え、殺された女官が複数いることが彼らにもわからず混乱を起こしているとみている[3]

駐朝鮮日本外交官

事件当時、日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと語っている[56]。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを責めることはできない」との内容の供述[61]を行っている[62]

また、領事官補だった堀口九萬一による事件翌日の1895年10月9日付書簡が2021年に発見され、そこに「(王宮への)進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と書かれていることが判明した[63]。広島地裁予審では堀口も被告の一人であったが免訴となり、以後外交官に復職、各国に赴任した[64]

日本側は当初、解散を伝えられた訓練隊が大院君を担いだクーデターという形で説明を行おうとしたが、日本人や日本軍の関与は多数の人々に目撃され、隠蔽は困難となり、諸外国の非難を受けた。そこで、犯罪者を取調べ、日本側で処罰するとして、三浦公使他、日本軍軍人、大陸浪人らが日本に送還された。

大院君

大院君については、王宮行きに長時間抵抗し、それが真相発覚につながったこともあって、角田房子・金文子は、大院君は無理矢理、反乱に引っ張り出されただけとみている[65]。また実際に、襲撃後、大院君は日本側によって事態の正当化のために名をさんざん使われているが、新内閣が事実上日本の傀儡といえるほど日本に迎合的になっただけで、大院君は宮内事務をとるだけとされ、政務には関係しないとされている[66]

大院君を担ぎ出したのは日本・韓国では表向きは訓練隊とされているが、これにも異論がある。大院君を引っ張り出したのは岡本柳之介、領事警察官、壮士らの日本人一行で、さらに日本軍の一隊が付いて、大院君の邸宅に行き、監視の警吏を通報に行かれないよう捕えて監禁した上で、大院君の説得にあたったという説がある[13]。出坐した大院君には日本人が付いていたとする証言もあり、こういった証言や日本人壮士を目撃したとする外国公使の証言について日本側からは訓練隊の者が日本人の服装に変装したのだとする主張も出されている[67]。秦郁彦は、訓練隊のメンバーで大院君の邸で目撃された者もいたとする。

日本政府・日本軍中央

日本政府の直接的関与については確たる証拠がなく、秦郁彦は「証拠不足」との見解を示している[68]

近年の学説では、崔文衛は、そもそも三浦悟楼は井上馨の希望により後任公使となったが、軍人出身で自ら外交はズブの素人として一時は就任を断るほどであり、その後、説得され赴任するが、西園寺の外交慣例に反するとの注意にもかかわらず井上は漢城に17日間もとどまって三浦と打ち合わせを行い、さらに今度は日本軍守備隊の指揮権を要求して西園寺の反対を受けながら、結局は伊藤内閣で認められており、クーデターは日本政府の全面的ではないとしても広範な支持を得た既定方針であることを示唆、元勲の井上が自身の悪評を避けるため三浦にクーデター役を引き受けさせたのではないかとして、前任公使井上馨の主謀論をとる[69]

角田房子は、崔文衛の挙げる事実とほぼ同じ事実を挙げていながら、伊藤博文と陸奥宗光が襲撃計画に加担していたとはどうしても思えないとしている[3]。ただし、そう考える根拠は不明である。壮士らの指導者格となった岡本柳之助は、陸奥の書生(私設秘書)であった人物で陸奥の情報係であったのであろうとしながら、角田は日本政府の関与は否定、計画を知りはしたかもしれないが事件時は病気で陸奥は静養中であり、陸奥の関与はよく判らないとしている[3]。崔文衛は、陸奥は当時は死病とされていた肺病であったから陸奥は関係ないだろうとしつつも、角田の取材力への定評と作家としての文才が、角田の三浦公使の独断暴走説が日本ばかりか韓国の研究者まで誤らせているとする[15]。なお、当時の死病としての肺病であれば結核ということになるであろうが、これは特効薬のない当時、結核の治療には栄養のある物を食べながら働かずに静養し自然治癒を待つくらいしか治療法がなく、これは一般の民衆には事実上不可能であったためである。陸奥のような立場の人間にこのようなことは関係ないと思われる。資料からは三浦の陰謀に協力したとは思えない西園寺が陸奥の静養により外相の臨時代行を務めることになっているが、この静養中の時期にも陸奥はなにごとか不明ながら元勲らとの打ち合わせに東京に戻ったりしている。

金文子は、電信線網を返還しようとして井上は「更迭」されたのであり、参謀次長の川上操六大本営の意を受けて、戦略的に朝鮮における電信線網の維持・確保しておくために後任として三浦が送り込まれたとする説をとる[70]。なお、金は、井上が三浦を推挙したとする一般の学者らの説については、その根拠とされている資料の片言隻句からはそうは必ずしも読み取れないとしている[55]。事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑している旨が記されている(10月19日付)[37]

福澤諭吉関与の陰謀論

安川寿之輔は、「閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布」されたと主張し、「そうした情報操作には福澤諭吉の関与があった」としている[71]。安川は、事件後に日本を非難するアメリカ世論をなだめるために、閔妃が惨状虐なる陰謀を逞しくしていたという物語を、福沢が慶應義塾関係者に英語で作らせ、『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記者に渡すことまでしたという[71]

目撃証言

事件時、高宗は景福宮中の乾清宮にいたと伝えられるが、日本側史料によると、さらに普段はその中の長安堂が国王の居間、坤寧閣が王妃の居間で、王太子夫妻が居るのは坤寧閣裏手の別棟であり、王妃は長安堂から引き出され後、殺害されて坤寧閣の奥に移され、さらに夾門から運び出されて、そばの小山を周った脇で焼棄てられたとされている[72][73]。また、日本人襲撃者側の主張では、王らと居たところから王妃を引きずり出した、王には経緯を払って後宮に捜しに行った等まちまちである。

純宗・高宗ら朝鮮王族

閔妃の子である純宗は、禹範善を「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」とし、自身が目撃したと語っている。日本側史料においても、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と禹範善自身が閔妃を殺害したと漏らしたとするものもある[48]。もっとも、信頼できる資料や証言に純宗が殺害現場にいたとするものはあまりなく、これは訓練隊第二大隊長である禹範善が反乱を起こした訓練隊を率いているのを見た、あるいは禹範善が責任者であったとの意と考えられる。事件直後の日本側での報道や朝鮮政府の事件後の判決では、訓練隊第一大隊が周囲を包囲し、禹範善の第二大隊が王宮を直接襲撃し侍衛隊と戦闘したとしている。また現場近くにいた高宗は、「我臣僚中不逞の徒」(私の臣下の中に道義にはずれた者が居た)と語っており、露館播遷により日本の圧力を逃れたときには、それまで犯人とされていた者の内2名を濡れ衣であるとし、仇をとるべき敵として禹範善ら様々な部署の者6名を挙げている[43]。1907年には、純宗は閔妃殺害の仇である禹の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事変が解決し、両国間数年の疑団も氷解すると日本に要請してきており、反閔妃派の興宣大院君も死亡していたため、減刑措置が和解案として実行されている[6]

外国人

このあたりの経緯についてはイザベラ・バードの『朝鮮紀行』にも詳述されている[74]。景福宮の警護にあたっていた侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のウィリアム・ダイ(William McEntyre Dye)であったが、「When he was in Korea, the assassination of Empress Myeongseong occurred. He received a report from Lee Hak-gyun; however, it was too late.(韓国にいたとき、明成皇后の暗殺が起こりました。彼はイ・ハクギュンから報告を受けたが、遅すぎました。)」とあるように目撃していない。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発信したが、東京でさし止められていた、と報じた。ロシア人の御用電気技師アレクセイ・セレディン=サバチン(Алексей Середин-Cабатин)は事件を直接目撃した。それによれば、日本人壮士らが王妃のいる後宮を襲撃、女官らを引きずり出しては1階窓から投げ落とし、そこの前庭では日本人士官に率いられた日本兵が周りを囲んで見張りをしていたという。

朝鮮人内部犯行説をとなえる人たちが現れたが歴史学界は下記をもって否定している 事件の2日後の1895(明治28)年10月10日に三浦梧楼西園寺公望外務大臣臨時代理に宛てたつぎのような電報(『日本外交文書』第28巻第1冊所収)を引用し、歴史学者は真っ向から反論している。

 ・・・・・過激のことは総て朝鮮人にてこれを行はわしめ、日本人はただその声援をなすまでにて手を下さざる約束なりしも、実際に臨んで朝鮮人躊躇してその働き充分ならざりし前、時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり、もっとも右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども、その場に朝鮮人居りし由なれば漏れ聞きしことなきを防ぐ可からず・・・・・。朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり、・・・・・この二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり」

 つまり、①もともとは閔妃殺害を朝鮮人に行わせ、日本人は直接には手を下さない計画だった。しかし、いざとなると朝鮮人が実行を躊躇ったので時機を逃さないよう数名の日本人が殺害に及んだと聞いている。②この件は極秘とし、朝鮮政府からは日本人が殺害に関与していないという証明書を取った。③外国人に対しては水掛け論に持ち込むことにした、というのである。

事件後と影響

なお、事件後、今度はアメリカの主導で高宗側がカウンター・クーデターを図るものの失敗、しかし、さらにその後、高宗はロシアの支援で勢力を一時回復した(露館播遷:後述)。王及び官僚らの列強の干渉・侵略に対する危機感は強まり、強力な権力の必要性が感じられ、高宗は皇帝に即位、大韓帝国の1899年8月に高宗が公布した「大韓国国制」第2条は、大韓帝国の政治は「今後も万世にわたり不変な専制政治」とし、高宗は帝国の専権を全て自身の掌中に帰することにしている[75]

露館播遷

事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まるなか、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与した、カウンタークーデターとしての春生門事件が発生。翌年に高宗がロシア大使館で政務を行うようになる露館播遷へとつながっていく。

大院君と高宗の決定的亀裂

この事件を機に、襲撃に加担した形の興宣大院君と高宗の親子間の亀裂は決定的となり、興宣大院君は日本からの何ら実質的な力を与えられることなく、以後力を回復することはなかった。高宗は3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなった際に略式の葬儀しか行わず、高宗自身は父親である興宣大院の葬儀に参列さえしなかった[7]

「日本側実行犯」の子孫の謝罪

2004年に熊本出身の元教師ら20人によって「明成皇后を考える会」が結成された。同会の目的は、日本側実行犯の後裔及び関連記録の調査と殺害事件の真相究明とされる[76]。同会が2005年に行った謝罪行は、日本のドキュメンタリー番組『テレメンタリー』で「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」と題して放送された。

2005年5月10日、事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で、「明成皇后を考える会」の会員10人とともに日本側の実行犯とされる家入嘉吉、国友重章の子孫が入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座[77]して謝罪する姿を韓国の報道機関が伝えた。墓地を訪れていた閔妃の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[78]

このドキュメンタリー番組では「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人によるものであった」という国王・高宗や王子・純宗などの証言を日本の工作とした。

犯行に使用されたとみられる凶器の市民団体の返還要求

安重根の100年目の命日にあたる2010年3月26日に曹渓宗中央信徒会と文化財返還事業を行う市民団体が発足した韓国の市民団体「肥前刀還収委員会」(崔鳳泰弁護士、ヘムン僧侶)は、櫛田神社が所蔵する、玄洋社の藤勝顕が1908年に奉納した肥前刀について、「乙未事変は韓日間の不幸な歴史の始まりだった。韓日間の恨みを触発した事件に直接使用された犯行道具がいまだ日本の神社に保管されているのは懸念すべきことだ」との声明を発表し、韓国国民の民族感情を刺激する凶器を日本は正しく処分すべきと促した[79]。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐」と記され、また、神社には皇后をこの刀で切りつけた旨を記した文書が保管されているとし、委員会は「1895年の乙未事変から100年余りの間に発生した韓日の悲劇的な業を象徴するこの刀を、処分するか韓国に戻すべきとの立場だ。犯人が皇后殺害にこの刀を使ったと自白したにもかかわらず、日本の神社に寄贈されたまま民間が所有しているのは法的に問題だ」と主張しているという[80]

脚注

出典

  1. ^ 参謀本部が指揮を取る京城守備隊とは別の部隊であり、日本公使館が指揮を取る警備隊
  2. ^ 閔妃(びんひ)暗殺事件国立公文書館
  3. ^ a b c d e f 『閔妃暗殺』新潮社、1988年1月20日。 
  4. ^ a b c d 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』、872,983頁。「三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。(中略)8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊・日本軍守備隊・日本警察官・日本人新聞記者・壮士らを動員、大院君を擁して景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。」 
  5. ^ a b c d 「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)
  6. ^ a b 「李朝滅亡」p58,片野次雄 · 1997年 「朝鮮王族も一枚岩でなく、双方の派で殺し合いまでしていたほど反明成皇后である興宣大院君、表立って父を批判出来ないが、明成皇后への身分下げ措置等には反対する高宗と純宗とに分かれていた。1898年に大院君が死亡するとそれまで明成皇后と大院君の指示を受けていただけの高宗が実権を握るようになる。1903年に明成皇后殺害した朝鮮人の一人である禹範善が暗殺された。1907年8月31日付往電第31号によると、明成皇后の息子の純宗は明成皇后殺害の犯人である禹範善の暗殺犯らを特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとして主張していた。反明成皇后派の興宣大院君死亡していたため、双方で減刑措置が和解案となり、主犯は当初死刑判決だったものの、無期懲役で確定となり、無期にもかかわらず5年間の懲役で朝鮮半島に返される措置を受けている。」
  7. ^ a b 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照
  8. ^ a b c d 山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川弘文館p.38,p.39
  9. ^ p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  10. ^ a b c p491 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  11. ^ a b 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日、273-276頁。 
  12. ^ 黒竜会 編『東亜先覚志士記伝.上巻』昭和8-10、黒竜会出版部、p525、国会図書館デジタル・コレクション= https://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1242345&contentNo=296&outputScale=4
  13. ^ a b 『李朝滅亡』彩流社、2010年8月15日、251,255頁。 
  14. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308
  15. ^ a b c d e f 『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年2月28日。 
  16. ^ a b c d e 『わかりやすい朝鮮社会の歴史』明石書店、1999年12月10日、151-156頁。 
  17. ^ p493 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)
  18. ^ a b 金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』岩波書店、2013年8月21日、170-171,161頁。 
  19. ^ a b 『閔妃暗殺』新潮社、1988年1月20日、178-180,338-339頁。 
  20. ^ a b c d 『新版 世界各国史 2 朝鮮史』山川出版社、2000年8月25日、237,238,239,243-244頁。 
  21. ^ a b 片野次雄『李朝滅亡』彩流社、2010年8月15日、248,258頁。 
  22. ^ a b 金容権『朝鮮史』白水社、1983年10月10日、109,111頁。 
  23. ^ 海野福寿『韓国併合』岩波書店〈岩波新書〉、1995年5月 p50
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  25. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24
  26. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-p25
  27. ^ a b 小松裕『「いのち」と帝国日本(全集日本の歴史 第14巻)』小学館、2009年、240頁。「閔妃殺害事件に関するこれまでの研究史を見ると、ほとんどが三浦梧楼首謀説をとっている。」 
  28. ^ a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
  29. ^ 『官報』1896年1月23日彙報・官庁事項「軍法会議判決」
  30. ^ “朝鮮事件判決書”. 読売新聞 朝刊. (1896年1月18日) {{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ)
  31. ^ 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
  32. ^ “朝鮮事件の予審免訴”. 読売新聞 朝刊. (1896年1月21日)  {{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ)
  33. ^ 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
  34. ^ 杉村濬『明治廿七八年在韓苦心録』杉村陽太郎発行、1932年、185-199頁
  35. ^ a b 1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』
  36. ^ アジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700 明治28年12月26日付機密第53号
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  39. ^ a b GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日  號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
  40. ^ 高宗は露館播遷後に朴銑、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸冤이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 内閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸冤과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
  41. ^ a b 『閔妃暗殺』新潮社、1988年6月25日、339-343頁。 
  42. ^ アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号
  43. ^ a b 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
  44. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 3번째기사
  45. ^ 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
  46. ^ 高宗実録 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽暦) 6번째기사
  47. ^ アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
  48. ^ a b 1907年8月31日付・往電第31号
  49. ^ “事変の一大原因”. 朝日新聞 朝刊: p. 1. (1895年10月11日) 
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  53. ^ a b 『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年2月28日、170頁。 
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  55. ^ a b 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日。 
  56. ^ a b 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87
  57. ^ 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』p24-25
  58. ^ 『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研、2009年2月15日、381-382頁。 
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  76. ^ 2005年5月9日 朝鮮日報
  77. ^ 同番組によると、「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた。
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  79. ^ 明成皇后殺害凶器「肥前刀」の還収委員会発足Wow Korea,2010/03/26 17:43配信YONHAPNEWS.
  80. ^ 明成皇后殺害凶器の肥前刀、日本の神社に返還要求へ」2010.3.25 20:26,聯合ニュース

※なお、『高宗実録』は朝鮮総督府によって編修されたもので、編纂委員には事件の容疑者だった菊池謙譲の名もある。


参考文献

資料・記録

  • 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年・1895年)
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研究

韓国

  • 黄玹「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」朴尚得訳、国書刊行会、1990年、 ISBN 4336031584
  • 黄玹「訳注梅泉野録」全3巻、朴尚得訳、文学と知性社 (mun-hak-kwa ji-seong-sa) 、 ISBN 89-320-1565-1
  • 강준만,《韓国近代史散歩 1》 (인물과사상사, 2007)
  • 黄玹,《梅泉野録》 (허경진 옮김, 한양출판사, 1995)
  • 朴殷植,《韓國痛史》(김승일 역, 범우사. 1997)
  • 정용화, <문명의 정치사상: 유길준과 근대한국> (문학과지성사, 2004)

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