駐朝公使から外務次官に
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「小村壽太郎」の記事における「駐朝公使から外務次官に」の解説
「乙未事変」、「露館播遷」、および「小村・ウェーバー協定」も参照 日清戦争に勝利し、朝鮮では親日派の金弘集内閣が成立したものの、1895年10月、この政権が誕生するにあたって閔妃が殺害される乙未事変が起こったため、日本の朝鮮での立場は危うくなった。日本政府は、これが国際問題に発展することを恐れ、事件調査のために小村を朝鮮に派遣した。政府は駐朝公使三浦梧楼を解任し、日本に召喚して逮捕し、代わりに政務局長の小村を駐朝弁理公使に任じた。小村は、三浦らに対して実は内心では同情的だったというが、関与を疑われる者を国外退去にするなど事態収拾のために奔走した。なお、日清戦争前の小村の肩書は臨時代理公使だったので、正式な公使としては初めての赴任であった。しかし、閔妃殺害事件によって朝鮮半島では反日派の勢いが強まりし、義兵闘争が激化していた。また、国王高宗その人もまた強固な反日主義者であって、小村もその対策に難渋した。 小村は、11月下旬の親露派・親米派によるクーデター事件を未然に防いだ(春生門事件)。しかし、1896年2月に起こった「露館播遷(俄館播遷)」は、国王がロシア公使館にうつり、そこで政務を執るという異常事態であり、小村にとっては痛恨の極みであった。それまで金弘集内閣を支えることに全力を注いできた小村であったが、金弘集自身が日本への亡命をあえて拒んだところから、民衆によって斬殺されてしまった。そして、親露反日の内閣が誕生して、朝鮮半島における利権の多くはロシアなどにわたってしまったのである。露館播遷に関しては、ロシアに出し抜かれた責任は小村にあるとして彼を批判する声が上がり、暗殺すると脅した者さえいたという。小村は、失地回復のために動き、ロシアと交渉して高宗が遷宮する道筋をつけたうえで、1896年5月、在朝鮮ロシア総領事のカール・ウェーバーとのあいだで小村・ウェーバー協定を結んだ。国王の王宮帰還を日露両国が忠告するともに、朝鮮に対して日本が持つ権利をロシアが持つ権利と同等のものとすることを相互に認め合う内容であった。 小村が駐朝公使だったのは、わずか半年あまりのことであったが、その間の経験は強烈であり、その後の彼の外交政策・外交姿勢にあたえた影響はきわめて大きかった。なお、この1か月後にはニコライ2世の戴冠式のためにサンクトペテルブルクを訪れた山縣有朋がアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー外相との間で協定を結んでいる(山縣・ロバノフ協定)。 1896年6月11日、小村は日本に呼び戻されて、原敬に代わって外務次官に着任し、以降、西園寺公望、大隈重信、西徳二郎3人の外相の下で外務次官を務めることになる。陸奥宗光は療養に専念するために5月30日に外相を辞職し、第2次伊藤内閣の文部大臣だった西園寺公望が兼務して陸奥後任の外相となっていた。露館播遷を許してしまったことは、小村としては大失態のはずであったが、陸奥はこれを責めることなく、むしろその能力を高く評価し、その外相辞任の直前、小村を次官に抜擢したのである。その後、この年の9月に第2次松方内閣が成立し、1897年11月6日までは大隈、その後は西が外相を務め、西は第3次伊藤内閣でも留任した。西徳二郎は、サンクトペテルブルク大学で学び、ロシア公使を10年も務めた当代きってのロシア通であり、日露関係が難しい時期を迎えていたこの時期、小村からすれば、西の下で働くのは心強かっただろうと考えられる。 結果的に小村は外務次官を2年3か月務めた。この時期の小村は、韓国問題や列国の対清活動、アメリカ合衆国のハワイ併合などに関する諸対策にあたった。特に力を入れたのは、大韓帝国での鉄道敷設権の獲得であった。1898年4月25日、西外務大臣と駐日公使ロマン・ローゼンとのあいだで西・ローゼン協定が結ばれたが、その内容には、日本の韓国への経済進出を帝政ロシアに認めさせる条文が含まれており、これには小村の進言の影響もうかがわれる。
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