駐清代理公使に
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「日清戦争」および「下関条約」も参照 翻訳局の廃止により、小村は通常ならば退官というコースをたどるところであったが、「元勲総出」内閣と呼ばれた第2次伊藤内閣の外務大臣、陸奥宗光に見出されて、1893年11月、清国公使館参事官として北京に着任した。これが、小村にとって外交の初舞台であった。原敬や星亨といった異才を見出して登用する独特の眼力をもっていた陸奥には、原、加藤高明、林董の「三羽ガラス」と呼ばれる側近がいた。陸奥が小村のことをいつ知ったのかは定かではないが、ある宴席で小村が原綿の生産額や貿易の状況、綿花の種類に至るまで事細かに論じていたのを、陸奥が感心して聞いたことがあったという。小村は、借財返済のために翻訳の内職をしていて様々な書籍や文章を翻訳して原稿料を得ていたが、これによりあらゆる知識もともに得ていたのである。ただし、体格が小柄で身なりも貧相、毒舌で周囲から変わり者呼ばわりされてきた小村が外交官となるのを反対する声も多かった。 陸奥は小村に対し、アメリカ通の小村にとって清国行きは不本意ではないかと尋ねたが、小村は喜んで北京在勤を申し受ける旨、返答している。小村は北京到着後、すぐに駐清臨時代理公使に昇進した。いくらかは清国事情を知っていたつもりの小村であったが、その実、北京では慮外のことばかりでわずかにあった自信も喪失していた。小村は、日本語文献のみならず、清国について書かれた英語文献も可能な限り取り寄せ、外国の公使とも積極的に交際して情報収集に奔走した。あらゆる方面に顔を出し、絶えず動き回る小柄な小村を、欧米の外交官たちは "rat minister"(ねずみ公使)と呼んだ。 1894年2月に朝鮮王国で起こった東学党の乱への対応が小村の初仕事となった。折衝にあたった小村の報告は正確無比なものだったといわれている。寸暇を惜しんで大量の洋書を読み、清国の国内視察もおこなった小村が出した結論は「眠れる獅子」と称される清国は必ずしも獅子ではなく、清国軍は日本軍の相手ではないというものであった。6月7日、清国政府は朝鮮政府の要請により朝鮮国内に派兵することを日本側に通告した。小村は、陸奥の指示により日本政府も派兵すると通知したが、清国は、朝鮮が清の属国だから派兵するのであり、日本の派兵とはまったく性質の異なるものであると主張し、また、自国民保護目的のための派兵ならば極力少人数にすべきだと唱えた。これに対して、小村は日朝修好条規や天津条約の規定を持ち出し、日本は朝鮮が他国の属国であったことを認めたことはなく、出兵は相互の取り決めによるものであり、また、派兵の規模は主権国家の専権事項であって他国の指示を受けるものではないと反論している。日清関係の極度の悪化に対し、ロシア帝国とイギリスが調停を申し出たが、これについても仔細を陸奥に報告した。なお、この年の7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が調印され、5年後の領事裁判権撤廃が決定している。 小村は清国に対して陸奥の開戦方針を忠実に守って行動し、朝鮮半島での日清対立においてはあくまでも自国の正当性を主張した。小村は各国公使の前では日本があたかも戦争を望んでいないように振る舞い、平時と変わらず、泰然としていた。また、あくまでも清国側に非があるように、清国軍の撤退を要求し、日清協同して朝鮮の内政改革を進めるよう呼びかけた。戦闘が始まると、7月31日には国交断絶を清国に伝え、翌8月1日には早くも北京公使館を引き払った。これは、小村の独断によるもので、自身も処罰を覚悟しての剛胆な行為であった。しかし、偶然ながら、同じ日に陸奥は宣戦布告を発し、小村の行為を不問に付した。 日清戦争中は、第一軍民政長官として現地(盛京省安東県)に派遣された。小村が日本軍占領地域の民心を安定させるために採った施策も、理にかなったものであり、第一軍司令官の山縣有朋などから高い評価を受け、第3師団長の桂太郎とも意気投合した。 戦後は外務省政務局長として、日清講和交渉において伊藤博文・陸奥宗光の両全権を補佐したが、下関条約調印直後に腸チフスに罹って入院した。1か月後には退院したものの、頬はこけ、眼の周囲はくぼんで容貌が以前とはすっかり変わってしまったという。
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