駐清公使として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「北京議定書」も参照 1900年10月23日、小村は駐清公使への転任を命じられた。清国と列強の講和交渉は、10月15日には始められていたが、混乱の収拾にはほど遠い状況であった。日本陸軍では、西徳二郎公使は列強に対し協調的すぎて頼りにならないとの不平が高まっており、西自身も約2か月続いた籠城で体調を崩していた。そこで、かつて代理公使として日清開戦にあたって交渉し、民政庁長官の経験もあり、押しの強さを期待できる小村に白羽の矢が立ったのである。小村は11月8日にロシアを離れ、ロンドン、ニューヨーク、バンクーバーを経て12月19日に帰国し、この日をもって駐清公使に就任し、12月27日に日本を出発して1901年1月6日に北京に着任した。 これに前後して駐日ロシア公使のイズヴォリスキーが1900年12月20日と1901年1月7日の2度にわたって加藤高明外相と会談し、日本に対し、韓国中立化の提案を申し入れてきた。これは、井上馨がそれを支持しているとの情報をつかんでいたからであったが、最も強固に反対したのが小村であり、北京着任直後の1月11日に意見書を送っている。その理由は、韓国における日本の地位は満洲におけるロシアの行動を多少なりとも抑制しており、なおかつ、すでに日本は韓国において政治的にも商工業の面でも最大の利益を保持しようと決意し、共通の認識となっているのに、これを放棄する理由はなく、放棄すれば日本の威信にかかわるというものであった。小村の意見は満韓の同時中立化ないし満韓の交換であり、満洲問題と韓国問題はあくまでも連関させて解決を図るべきというものであった。加藤外相自身も韓国のみの中立化提案には反対だったので、1月17日、西・ローゼン協定を理由に、イズヴォリスキーの提案を公式に拒否した。 小村は、駐清公使赴任当初より義和団事件の講和会議全権として事後処理にあたった。ただし、和平交渉そのものは1900年12月30日には既に大枠が定まり、一定の妥結をみていた。10か国以上が関わる国際会議で清国との個別交渉は不可能と判断した露仏両国の見解に日本も賛成し、清国もまた合同協定の内容に同意していたからであった。とはいえ、処罰の程度や賠償金の額など議論しなければならない議題は多岐にわたり、諸国の利害関係は多様で複雑に絡み合っていたため、会議は長期化した。1901年3月、小村は英仏独の公使とともに清国の財源調査のための委員会の委員となり、清国の関税収入を詳細に調査して緻密な覚書を提出し、賠償額交渉の進展に寄与した。さらに小村はアメリカのウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル駐清公使とともに清国の外交改革に尽力した。ここでの小村駐清公使の活躍はめざましく、「日本外交に小村あり」の声が世界でもささやかれるようになった。 一方、ロシアの満洲占領という事態については、露清両国の満洲現地軍相互の密約があり、本調印はなされなかったものの清国の主権はおおいに損なわれたままであった。小村は加藤外相に逐一清国の情報を提供したほか、3月には李鴻章と会談して密約には日本は断固として反対であると圧力をかけた。加藤外相もイギリス・ドイツの両国に協力を要請し、その賛意を得たうえで、1901年3月20日に駐日清国公使の李盛鐸を招いて会談を開き、日・英・独の意向も伝えてロシア側要求を拒絶するよう勧告し、ロシアに対しても、珍田捨巳駐露公使に電訓し、ロシアの対清要求は満洲に保有するロシアの権利防衛に必要な限度を超えたものであり、列国代表者会議に提案して協定すべき問題であると通告した。ところがロシアは、4月5日付官報において露清交渉打ち切りを宣言し、同内容の通牒を関係各国に示した。加藤外相は4月16日の公使宛書簡で小村の尽力について感謝し、その労を厚くねぎらったが、ロシアの満洲撤兵問題は宙に浮いたままとなった。小村は講和会議の席上でもロシア全権のウラジーミル・ラムスドルフ外相に満洲撤兵を強く要求している。 1901年9月7日、清国および11か国との間でようやく北京議定書(辛丑条約)が調印され、義和団戦争の戦後処理は本議定書によってなされることとなった。小村にとっては、満洲占領問題こそ解決できなかったものの、賠償金も得られ、北京に駐在する自国民の生命・財産を守るための駐兵権が認められたことは、とりあえず満足すべき結果だったろうと考えられる。なお、議定書の内容は清国にとって苛酷なものとなったが、窮地に陥った清国の内情が知られるにつけ、列強の側も清国に対する圧迫を手控え、清国政府の主権と領土を支持するなかで自国の権益を守る姿勢へと態度を修正していった。小村は、講和会議の交渉中の6月、日本から思わぬ知らせを受けていた。それは、新首相桂太郎からの外務大臣就任要請であった。
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