駐日米国公使としての活動とは? わかりやすく解説

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駐日米国公使としての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 05:44 UTC 版)

ロバート・H・プリュイン」の記事における「駐日米国公使としての活動」の解説

1861年国務長官となっていたスワード個人的な要請に基づきエイブラハム・リンカーン大統領はプリュインを第2代駐日米国公使任命した。プリュインはこのとき経済的に困窮していたこともあり、高給であるうえに有利な為替大きな利益上げられることを前任タウンゼント・ハリスから聞いており、この職を受け入れた1862年5月17日文久2年4月19日)にプリュインは将軍徳川家茂謁見し、リンカーン大統領信任状提出した前任者タウンゼント・ハリスと同様、当初欧州諸国とは異なる独自外交行った生麦事件後、イギリス・フランス武力背景幕府交渉行ったが、プリュインはこれに対して批判的であった。しかし、その砲艦外交効果をあげるのを見たこと、さらに自国軍用帆船ワイオミング日本派遣されてきたことから、徐々に英仏との協調路線転換していく。アメリカにとって、プリュインの日本における最大功績下関戦争後の交渉であった下関海峡米国商船砲撃されたことを知ると、プルインワイオミング報復攻撃命じたが、これは日本対す西欧諸国最初の攻撃であった四国艦隊下関砲撃事件の際、アメリカ適切な蒸気軍艦日本近海有していなかったため、蒸気商船タ・キアンチャーターし武装させて攻撃参加させた。江戸幕府との交渉アメリカにとって極めて成功であった認識されている。 なお、軍艦発注では問題起こしている。1862年9月22日8月29日)、老中板倉勝静水野忠精がプリュインに軍艦発注相談した幕府先任ハリスフリゲートコルベットそれぞれ一隻発注していたが、南北戦争の勃発実現していなかった。プリュインは大型艦よりは小型艦多数持つ方が良い回答した10月14日(閏8月21日)、最終的にコルベット2隻、ガンボート1隻と、蒸気機関駆動砲身中ぐり盤アメリカ発注された。1864年6月富士山丸完成したが、下関戦争勃発によりリンカーン大統領富士山丸出航差し止めその他の軍艦の製造中止された。結局富士山丸日本到着したのは1866年1月23日慶応元年12月7日であった。プリュインはこの軍艦製造業者として身内使った疑惑があり、幕府に対してリンカーン大統領指示関す十分な説明もしなかったため、幕府信頼失ったこのため1865年アントン・ポートマン代理公使とし、病気理由帰国した

※この「駐日米国公使としての活動」の解説は、「ロバート・H・プリュイン」の解説の一部です。
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