駐日米国公使としての活動
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「ロバート・H・プリュイン」の記事における「駐日米国公使としての活動」の解説
1861年、国務長官となっていたスワードの個人的な要請に基づき、エイブラハム・リンカーン大統領はプリュインを第2代の駐日米国公使に任命した。プリュインはこのとき経済的に困窮していたこともあり、高給であるうえに有利な為替で大きな利益が上げられることを前任のタウンゼント・ハリスから聞いており、この職を受け入れた。 1862年5月17日(文久2年4月19日)にプリュインは将軍徳川家茂に謁見し、リンカーン大統領の信任状を提出した。 前任者のタウンゼント・ハリスと同様、当初は欧州諸国とは異なる独自外交を行った。生麦事件後、イギリス・フランスが武力を背景に幕府と交渉を行ったが、プリュインはこれに対して批判的であった。しかし、その砲艦外交が効果をあげるのを見たこと、さらに自国の軍用帆船ワイオミングが日本に派遣されてきたことから、徐々に英仏との協調路線に転換していく。アメリカにとって、プリュインの日本における最大の功績は下関戦争後の交渉であった。下関海峡で米国商船が砲撃されたことを知ると、プルインはワイオミングに報復攻撃を命じたが、これは日本に対する西欧諸国の最初の攻撃であった。四国艦隊下関砲撃事件の際、アメリカは適切な蒸気軍艦を日本近海に有していなかったため、蒸気商船タ・キアンをチャーターし、武装させて攻撃に参加させた。江戸幕府との交渉はアメリカにとって極めて成功であったと認識されている。 なお、軍艦発注では問題を起こしている。1862年9月22日(8月29日)、老中板倉勝静と水野忠精がプリュインに軍艦の発注を相談した。幕府は先任のハリスにフリゲートとコルベットをそれぞれ一隻発注していたが、南北戦争の勃発で実現していなかった。プリュインは大型艦よりは小型艦を多数持つ方が良いと回答した。10月14日(閏8月21日)、最終的にコルベット2隻、ガンボート1隻と、蒸気機関駆動の砲身中ぐり盤がアメリカに発注された。1864年6月、富士山丸が完成したが、下関戦争の勃発によりリンカーン大統領は富士山丸の出航を差し止め、その他の軍艦の製造も中止された。結局、富士山丸が日本に到着したのは1866年1月23日(慶応元年12月7日)であった。プリュインはこの軍艦の製造業者として身内を使った疑惑があり、幕府に対してリンカーン大統領の指示の関する十分な説明もしなかったため、幕府の信頼を失った。このため、1865年にアントン・ポートマンを代理公使とし、病気を理由に帰国した。
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