高宗の親露政策と大韓帝国の成立
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「韓国併合」の記事における「高宗の親露政策と大韓帝国の成立」の解説
日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として朝鮮史上最初の憲法である「洪範14条」を制定して甲午改革が推進したが、フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、ロシア帝国と結んだ高宗の妃閔妃の影響力が強まり、金弘集内閣の兪吉濬や金嘉鎭などが相次いで追放された。失脚していた大院君は開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こして閔妃を殺害して復権を果たすが、残された事大党(李範晋ら)は妻を殺害された高宗を味方につけて、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して実権を握り、高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)。ロシアの威光を背景に皇帝の専制を推進する高宗に対抗して、開化派は独立協会を設立して、朝鮮が清の冊封国として設けた慕華館、迎恩門を独立館、独立門と改め、開化思想と自主独立の啓蒙に努めた。 朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した。1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル(en:Alexey Shpeyer)の要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフ(Kiril A. Alexeev)へと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた。また、1898年1月には対馬と近い釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)。開化派は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。
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