高宗即位当時の環境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
「張邦昌」も参照 金の将軍たちは宋の崩壊を予想したり、或いは望んだりはしていなかった。金側の目的はあくまで宋を弱体化させる事でこれまでよりも多くの歳幣を受け取る事にあり、この大きすぎる勝利は全くの予想外であったのだ。また女真族としては遼の旧領での支配の確立に気を取られておりそれどころでは無かった。そのため金は宋への侵攻を続ける代わりに、漢民族を用いて漢民族を支配させる戦略を採った。金は、北宋地域での反乱を鎮めるために金の介入を必要とせずに華北を統治し、毎年の歳幣を確保できる国家の樹立を模索した。1127年、金は元々宋の宰相であった張邦昌を擁立し、張邦昌は新たに建国された大楚の傀儡皇帝となった。傀儡政権になっても華北での抵抗は止まらなかったが、あくまで反乱軍の動機は、宋朝への忠誠からのものというよりは、金による略奪への怒りからのものであった。華北に点在する都市に駐留していた宋の将軍の中には、宋に忠誠を誓う者も多く、武装した志願兵たちは、金軍の駐留に反対する義勇兵を組織したのである。この反乱は金が北方を支配する上での障害となった。一方、宋の帝室の一人である趙構は捕らえられなかった。外交職務中で冀州に行き、開封には居なかったからであった。そのため開封の都が金に占拠された際の帝室の拉致を免れたのだった。後の高宗趙構は、河北・河南・山東を転々としながら、追撃する金軍から何とか逃れた。金は趙構を開封に誘い込んで、捕らえようとしたものの、成功しなかった。趙構は1127年6月初旬にようやく、未だ宋の勢力の支配下であった南京応天府(現在の商丘市)に到着した。再興した宋にとって、応天府はあくまで「行在」という形の臨時首都であった。また政権が応天府に建ったのは、宋の建国者である趙匡胤がかつて応天府を拠点としていたという歴史的重要性からであった。つまり南京応天府への遷都は、6月12日に新たに即位した高宗の正統性を裏付けるためであった。また李綱は高宗に圧力をかけ、宋を裏切った張邦昌は自害に追い込まれた。張邦昌の殺害は、宋が金を刺激することを厭わず、金が新たに征服した領土に対する支配をまだ確立していなかった事を示していた 。金の傀儡政権であった大楚の併合と解体により、開封は再び宋の支配下に入った。開封の守将の宗澤は、高宗に政権を開封に戻すよう求めたが、高宗はこれを拒絶し南に退却した。この南遷によって、北宋時代は終わり、南宋時代が始まった。また曲阜の孔子の子孫である衍聖公孔端友も高宗政権とともに南方の衢州に逃れ、代わって華北を占拠した金は、曲阜に残った孔端友の弟の孔端操を衍聖公に任命した。また、張載の曾孫である張選も高宗とともに南へ逃れた。
※この「高宗即位当時の環境」の解説は、「宋金戦争」の解説の一部です。
「高宗即位当時の環境」を含む「宋金戦争」の記事については、「宋金戦争」の概要を参照ください。
- 高宗即位当時の環境のページへのリンク