併合問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 22:16 UTC 版)
「チェスターフィールド郡 (バージニア州)」の記事における「併合問題」の解説
チェスターフィールド郡は4つの独立市に接しており、バージニア州法の下でそれらのどれとも併合問題が生じてきた。20世紀には1944年にあったものを含め何度かリッチモンド市への併合で領域を失ってきた。リッチモンド市が1970年に郡の領域をさらに併合しようとしたときに論争が生じた。 1965年に、郡内の51平方マイル (132 km2) を吸収するために、リッチモンド市が起こした併合訴訟が聴聞に付されている間に、チェスターフィールド郡郡政委員会議長のアービング・G・ホーナーと、リッチモンド市長のフィル・J・バグリー・ジュニアが、個人的に会見して妥協案に達した。1969年5月、リッチモンド市とチェスターフィールド郡はいわゆるホーナー・バグリー妥協案を承認し、1969年7月12日の法廷判決に取り込まれた。このことで併合を妨害しようとしていた第三者を事実上締め出したので、蚊帳の外に置かれたと考えた。郡内で小さな通勤バス会社が運行権を持っていたが、拡張されたリッチモンド市が競合会社に権利を認めることになった。 リッチモンド市は郡内の23平方マイル (60 km2) を併合し、その中には消防署、公園と上下水道線などのインフラが含まれていた。合意の下で郡の教育学区も約1ダースの学校、支援建築物、将来の学校用地をリッチモンド市の公共教育学区の運営に移管した。併合された地域の住人はこの変更に不満だった。リッチモンド市公共教育学区は学校の人種統合に失敗したために、連邦裁判所で人種差別廃止に関する訴訟に巻き込まれていたからだった。移管された学校には、ユグノー高校、フレッド・D・トンプソン中学校、エルクハート中学校と8つの小学校が含まれていた。1971年、連邦裁判所は、これらの学校を市全体の人種差別廃止バス運行計画に含める命令を出した。この問題は1990年代に終わった。 併合された地域に住む住民47,000人の多くはこの動きに反対していた。彼らは7年以上、合意をひっくり返そうと訴訟に動いたが失敗した。ある者は併合された地域を「占領されたチェスターフィールド」と呼んだ。 リッチモンド市の多くの黒人住人も、併合が1965年選挙権法に違背すると主張して併合に反対した。リッチモンド市は併合された地域の白人票を追加することで、市内の黒人票の力を薄め、黒人の選挙権を減らそうと考えていると主張した。1970年、併合前のリッチモンド市人口は202,359人であり、そのうち104,207人、52%が黒人の市民だった。併合によって47,262人が増え、そのうちの45,705人が非黒人、1,557人が黒人だった。併合後の人口は249,621人となり、黒人比率は42%に下がった。 連邦裁判所では原告が勝訴した。リッチモンド市は黒人が選挙での力を失わないように選挙区システムを創り、それまで市全体から市政委員を選んでいたシステムから変更された(以前のシステムでは人口の多数を占める集団が容易に多数を占めた)。選挙区システムでは4つの選挙区が圧倒的に白人優位であり、4つの選挙区は黒人優位、1つの選挙区が白人49%と黒人41%だった。選挙区が導入されてから間もなく、リッチモンド市は初の黒人市長を選出した。
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