帝国崩壊後のボスニア・ヘルツェゴビナ
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「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「帝国崩壊後のボスニア・ヘルツェゴビナ」の解説
国際的承認を受けられなかったスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国の呼びかけで、11月6日から9日にかけてジュネーヴで会議が開かれた。会議に出席したのはスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議の代表3名、セルビア王国首相パシッチ、セルビア王国野党勢力3名、ユーゴスラヴィア委員会代表5名であり、モンテネグロ王国代表は参加しなかった。この会議で、南スラヴ統一国家の国家形態が決まるまでセルビア王国政府と民族会議とが併存して旧帝国領南スラヴ地域を統治するという主旨の「ジュネーヴ宣言」が発せられた。 パシッチはこれに不服であり事態は順調には進まなかったが、旧帝国領では社会的混乱が続き、さらにイタリア王国がロンドン条約に基づいてダルマツィア沿岸部を占領したこともあって、ダルマツィアの民族会議が14日にスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議に対して統一交渉を促す要請を行った。19日にはボスニア・ヘルツェゴビナの民族会議も同様の要請を行った。その後も統一に向けた動きが進み、モンテネグロ王国での反乱やクロアチアの一部勢力の反対を押し切って、ジュネーヴ宣言ではなく大戦中に出されたコルフ宣言に沿って統一を進める方針で27日に決着した。こうして12月1日、セルビア王国摂政アレクサンダルがセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の成立を宣言した。
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