帝国憲法以前
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慶応3年(1867)9月、前土佐藩主山内容堂が大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し至誠をもって万国に接し王政復古の業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉りそうろう」と述べた。当時の政治家は国体を重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字を祐筆福岡孝弟に書かせた。当時事務を所管した福岡孝弟は「国体変換」と言っていた。明治維新の始め、福岡孝弟も起草に関わった五箇条の御誓文は、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、智識を世界に求めることを誓った。 維新の前後においては主に米国と英国を先進国としてその文化を仰いだ。米国は日本を開国させた後、日本を新参の弟子かのように指導した。英国は米国と同言語であり、当時はインドを拠点として盛んに東方に進出している時期であった。日本では米英の政治書や修身書が翻訳され、福沢諭吉が英学を根拠に功利主義を掲げて多くの通俗書を著わし実用学を鼓吹した。 英米の実用功利主義が一世を風靡する一方で、日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもない。そもそも王政復古の原動力は主に復古国学派の勃興によるものであって、明治維新の政治は国体の本領に返るものと称された。平田派国学者で地位を得た者も少なくなかった。たとえば矢野玄道、大国正隆、福羽美静、平田鉄胤、六人部是香などである。国体観念の中核というべき神祇は、明治新政の初めにおいて重んじられた。 新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局に改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教に蠱惑せられず」と唱えた。同年7月太政官の上に神祇官を置いて神祇尊崇を示し、同年10月に宣教使を置き、明治3年1月3日(1870年2月2日)に大教宣布の詔を発し、宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神の大道を宣揚すべき」ことを命じた。これは国体を発揮することにほかならないという。 大教宣布は、祭政一致や国体強化を目指した国民教化政策であったが、宣教使の員数不足や教義の未確立などから終始不振であった。神祇官は明治4年8月に神祇省に降格され、大教宣布は仏教側の反対などもあって挫折する、仏教各宗は連署して、神官と合同して宣教の任に当たりたいと政府に請願する。政府は明治5年3月に神祇省と宣教使を廃止し、教部省を置き、翌4月に神官と僧侶を合併して教導職を置く。教部省は宣教を掌り、教導職は宣教の任に当たる。神官と僧侶が合同して宣教するにあたっては、その教旨の基準を定める必要があるということで三条教憲が定められる。これは矢野玄道『三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道ら皇学派の人々がその議に関わったという。三条教憲の各条は次の通りであり、いずれも国体の趣旨に依拠している。 敬神愛国の旨を体すべき事 天理人道を明らかにすべき事 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事 三条教憲を宣伝するために著された書籍は数多い。いずれも国体の基本と神祇が不可分であることを説いた。これらの書で「道」「皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道の行われる有りさまを指したものであり、多くは神代の状態を意味した。 1873年(明治6年)10月新聞紙条目が発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである。 国体を主題とした書籍として、1874年(明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年(明治8年)に宇喜多小十郎『国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話を敷衍し、神代の状態を述べたものである。 1874年(明治7年)加藤弘之は『国体新論』を発表し、当時日本に流入し始めたフランス流の民権平等説に従って、従来の保守的国体思想に反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越な論調で国学者の国体観を批判した。具体的には以下の通りである。 従来称する国体は野鄙陋劣である。文明開化に至らない国々において、国土は全て君主の私有物であり、人民は全て君主の臣僕であるものと思い、これを国体の正しい姿とすることは、野鄙陋劣の風俗といわざるをえない。 君主も人民も人であり、決して異類の者ではないのに、その権利に天地懸隔の差別を立てるのは何事か。こんな野鄙陋劣の国体に生まれた人民こそ不幸の極みである。 人民もまた、こんな浅ましい国体をも決して不正であるとは思わず、君主の臣僕となって一心に奉事する。このため多少の虐政があっても国乱の起ることなく泰平に長く続く国もあるが、もとより不正な国体であるので、決して人民の安寧幸福を得るに至らない。 日本や漢土などで古来から野鄙陋劣の国体を是認し養成してきたことは実に嘆かわしい。仁徳天皇の「君は民をもって本と為す」と宣う詔勅などは感歎すべきであるが、これによって国体を改正するまでには至らなかった。 本邦において国学者流の輩の論説は厭うべきものが多い。国学者流の輩は、愛国に切実なあまり皇統一系を誇るが、惜しいことに国家君民の真理を知らない。結局、国土人民は全て天皇の私有臣僕であるとして、様々な牽強附会(こじつけ)の妄説を唱え、およそ本邦人民は天皇の勅命であれば何でも甘受するのを真誠の臣道であると説き、これらの姿をもって我が国体と目し、これをもって本邦が万国に卓越する所以であるという。その見は野鄙であり、その説は陋劣であり、実に笑うべきものである。 本邦が皇統一系であって過去に革命がなく今後も天壌無窮であることは望ましいことだが、そうであっても国土人民を天皇の私有臣僕とするような野鄙陋劣の国体を我が国体とする理は決してない。 欧州においても、近古の始めまで国土人民を一君主の私有臣僕とした国体であった。欧州では、近代に人文知識が開けるにしたがい、旧来の陋劣野鄙な国体は次第に廃滅し、現在の公明正大の国体になった。 初め英国のみ他の欧州各国に卓越したが、その後その他の国々も英国に倣うようになった。 プロイセン王フリードリヒ2世は、当時各国の国体が天理人性に反し野鄙陋劣であるのを嘆き、公正明大の国体を論説し「われわれ人君は天下を私有し人民を臣僕とする者ではない。国家第一等の高官にすぎない」と言った。フランス王ルイ14世の「朕は天神が現出した者(現人神)である」という暴言と比較してその公私正邪は言うまでもない。 欧州の開明論をもって国家君臣の真理を概論し、それによって公明正大なる国体を示そう。国家君民成立の理は、安寧幸福を求める人の天性にある。 この理に合う国体はどういうものかというと、国家において人民を主眼と立て、特に人民の安寧幸福を目的と定め、君主と政府はこの目的を遂げるためにこそ存在するということを国家の大主旨とする国体をいう。 これに対し国土人民を君主の私有臣僕とした従来の国体は天理人性に背反する。 たとえ万世一系の本邦であっても、天皇と政府はこの理に従って職務を尽くす必要がある。以上。 国体と政体は異なる。国体は眼目であり、政体は眼目を達する方法である。国体は万国ともに理に背くことは許されないが、政体は必ずしも一つである必要がない。 君主政体でも民主政体でも公正明大の国体を維持育成できればよく、政体の可否はその国の沿革由来と人情風習によって定めればよい。 欧州各国の多くは立憲君主政体を用い、米州各国の多くは立憲民主政体を用いる。 君権無限の政体は君主政府の暴政を生じやすい政体であるので良正の政体といえないが、開化未全の国においてはこの政体でもしばらく必要とせざるをえない。しかし、たとえ君権無限の国であってもその国体は理に反することを許されない。以上。 以上のように論じる『国体新論』について、岩倉具視が7年後に回想したところによると、それは島津久光(保守主義者)が左大臣だった時で大いに議論になったが、その時は誰も頓着しなかったという。また内務省神社局 (1921) によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本の国体を誇りに思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜で過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之は同書をほどなく撤回し、同一説を二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、天賦人権説に反駁し、キリスト教を攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人のようになったという。 1876年(明治9年)8月、浦田長民が『大道本義』を著す。浦田長民は伊勢神宮の少宮司であり、神宮大麻の全国配布などに功績を残した。『大道本義』では、一種の神道説を展開し、その中で神祖宏業の遺蹟と皇位尊厳との関係について述べた。 1876年(明治9年)9月、元老院に憲法起草を命ず。明治天皇は元老院議長熾仁親王を召し、右大臣岩倉具視の侍立のもと、我が建国の体(国体)に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲(憲法)を起草せよとの勅語を下したのである。元老院では国憲取調委員と国憲取調懸を設けて編纂に努力し、翌月には第一草案を脱稿する。その後再度、稿を改める。 1880年(明治13年)12月、元老院が国憲案を天皇に上進する。この国憲起草は日本で初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋を模倣したのであって、国体を無視した箇条も少なくなかった。伊藤博文はこの草案を見て、これは各国憲法の焼き直しにすぎないのであって我が国体人情に適したものではないと考え、右大臣岩倉具視に書簡を出してこのことを痛論し、天皇の思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした。同月の伊藤博文の奏議に「ただ国会を起してもって君民共治の大局を成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体の変換に係る。実に昿古(空前)の大事、決して急躁をもって為すべきにあらず」とある。 1881年(明治14年)国会開設の勅諭が発さられる。その事情は次のようであった。これより先、開拓使官有物払下げ事件が起こり、さらにそれが国会開設問題に飛び火して、薩長の専横のために国会が開設されないとして薩長藩閥を非難する声が高まった。薩長の参議が国会開設に慎重であるの対し、参議の中で大隈重信が一人だけ国会早期開設の意見書を奉呈していたことが知れ渡り、人々の期待が大隈に集まった。薩長の人々はこれを大隈の陰謀に起因すると考え、10月11日に大隈を除く参議が大臣らとともに開拓使官有物払下中止と大隈追放と国会開設の三事を明治天皇に奏請した。国会開設の奏議は、自由民権運動に対する明治政府首脳部の反動を示すとともに日本憲法の特色を示している点で重要である。特に文中に「憲法の標準は建国の源流に依るはいうを待たず、願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず、広く民議を興し公に衆意を集めるも、しかも我が皇室の大権を墜さず、乾綱を総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意を要する。明治天皇は奏議を受け入れ、翌12日に国会開設の勅諭を発した。 〔前略〕顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略〕 来たる明治23年(1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設を一大標語としてきた民権論者はその気勢をそがれた感じになった。 金子堅太郎の回想によれば、1884年(明治17年)9月に明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯は次のようであったという。憲法起草を命じられた伊藤博文が欧州で憲法調査を終えて帰国した後、この月の閣議で初めて憲法制定について意見を述べ、その時「議会を開けば国体は変換する」と説いた。参議佐佐木高行は「国体の変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤の雄弁と博識に追い捲られ、閣議は伊藤の意見で決まりそうになった。閣議の後、佐佐木は制度取調局の金子堅太郎に国体の字義を尋ねて以下のような書簡を送った。 国体とは欧米でも唱えるものなのか。いま国体国体と申すのは何何であるのか。 ある人(伊藤博文)曰く、国体とは、一系の天子が千歳連綿、いわゆる天壌無窮に伝えるのみを意味するのではなく、日本国なり日本人なり言語なり風俗なりを意味するのであると言うのを聞いた。これに小生(佐佐木高行)は甚だ疑惑を生じた。 国体の字義は漢語であるので、漢国で何の時から唱えたものか漢学者に聞いてみたが、漢学者のほうが却って心得がないということであった。分けがわからない。 欧米に国体に相当する語はないかと思うし、いま国体国体と申すのは近年のことかとも思う。内密に意見を聞きたい。以上。 金子は佐佐木の官邸を訪ねて佐佐木の疑問に答え、さらに意見書をまとめて佐佐木に渡した。金子の意見は次のようであった。 国体は時勢とともに変更するという説は、国体と政体とを混同することに起因する。日本で国体と称するものは日本固有の政治的名称である。たとえば水戸の弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳」というのがそれである。国体は万世一系の皇統が皇位を無窮に継承するという日本特有の政治原則である。 欧米でこれと同一の意義を有するものはない。唯一、英国のエドマンド・バークは論説中でフランス革命が「英国の基礎たる政治原則」(ファンダメンタル・ポリチカル・プリンシプル・オフ・イングランド)を破壊すると論じた。この原語こそ日本の国体の意義に近い。英国は君民共治の国柄であり、君民共同して政治をするのが英国の政治の根本、すなわち日本にて国体というものと同じである。 欧米の政治学によれば一国の政体は時勢とともに変更することがある。日本においても政体は時勢とともに変更したことがあったが、国体は永久に変更すべきではない。 佐佐木は金子の意見をもとに後日の閣議で伊藤に反撃した。伊藤は佐佐木に金子が入れ知恵したことを知り、制度取調局に行って金子に問い質した。「おい金子、君は国会を開いても国体が変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体は変更するものなり。国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道を敷けば山の形が変わる。君が洋服を着れば姿が変わる。西洋の文明を輸入すれば日本の言葉も変われば家も変わる。議会を開けば国体も変わるではないか」と言い、金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております。欧州の学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体は決して変更してはなりませぬ」「閣下は万世一系の天皇が統治せらるる国体を改める御考えですか」等と反駁し、互いに譲らず一時間ほど議論したという。
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