帝国憲法以前とは? わかりやすく解説

帝国憲法以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)

国体」の記事における「帝国憲法以前」の解説

慶応3年(1867)9月、前土佐藩山内容堂大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体一変し至誠をもって万国接し王政復古の業を立てざるべからざる一大機会存じ奉りそうろう」と述べた当時政治家国体重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字祐筆福岡孝弟に書かせた。当時事務所管した福岡孝弟は「国体変換と言っていた。明治維新始め福岡孝弟起草に関わった五箇条の御誓文は、旧来の陋習破り天地公道に基づき智識世界求めることを誓った維新前後においては主に米国英国先進国としてその文化仰いだ米国日本開国させた後、日本新参弟子かのように指導した英国米国と同言語であり、当時インド拠点として盛んに東方進出している時期であった日本では米英政治書や修身書翻訳され福沢諭吉英学根拠功利主義掲げて多く通俗書を著わし実用学鼓吹した英米実用功利主義一世を風靡する一方で日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもないそもそも王政復古原動力は主に復古国学派の勃興よるものであって明治維新政治国体本領に返るものと称された。平田派国学者地位得た者も少なくなかった。たとえば矢野玄道大国正隆福羽美静平田鉄胤六人部是香などである。国体観念中核というべき神祇は、明治新政初めにおいて重んじられた。 新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教蠱惑せられず」と唱えた同年7月太政官の上神祇官置いて神祇尊崇示し同年10月宣教使を置き、明治3年1月3日1870年2月2日)に大教宣布の詔発し宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神大道宣揚すべき」ことを命じた。これは国体発揮することにほかならないという。 大教宣布は、祭政一致国体強化目指し国民教化政策であったが、宣教使員数不足や教義の未確立などから終始不振であった神祇官明治4年8月神祇省降格され大教宣布仏教側の反対などもあって挫折する仏教各宗は連署して、神官合同し宣教の任に当たりたいと政府請願する政府明治5年3月神祇省宣教使廃止し教部省を置き、翌4月神官僧侶合併して教導職を置く。教部省宣教を掌り、教導職宣教任に当たる神官僧侶合同し宣教するにあたっては、その教旨基準定め必要があるということ三条教憲が定められる。これは矢野玄道三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道皇学派の人々がその議に関わったという。三条教憲の各条次の通りであり、いずれも国体趣旨依拠している。 敬神愛国の旨を体すべき事 天理人道明らかにすべき事 皇上奉戴朝旨遵守せしむべき事 三条教憲を宣伝するために著された書籍数多いいずれも国体基本神祇不可分であることを説いた。これらの書で「道」皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道行われる有りさま指したものであり、多く神代の状態を意味した1873年明治6年10月新聞紙条目発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法主張宣説して、国法妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである国体主題とした書籍として、1874年明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年明治8年)に宇喜多小十郎国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話敷衍し、神代の状態を述べたのである1874年明治7年加藤弘之は『国体新論』を発表し当時日本流入し始めたフランス流の民権平等説に従って従来保守的国体思想反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越論調国学者国体観を批判した具体的に以下の通りである。 従来称する国体野鄙陋劣である。文明開化至らない国々において、国土全て君主私有物であり、人民全て君主臣僕であるものと思い、これを国体正しい姿とすることは、野鄙陋劣風俗いわざるをえない君主人民も人であり、決し異類の者ではないのに、その権利天地懸隔差別立てるのは何事か。こんな野鄙陋劣国体生まれた人民こそ不幸の極みである。 人民また、こんな浅ましい国体をも決して不正であるとは思わず、君主臣僕となって一心に奉事する。このため多少虐政があっても国乱起ることなく泰平長く続く国もあるが、もとより不正な国体であるので、決し人民安寧幸福を得るに至らない日本漢土などで古来から野鄙陋劣国体是認し養成してきたことは実に嘆かわしい仁徳天皇の「君は民をもって本と為す」と宣う詔勅などは感歎すべきであるが、これによって国体改正するまでには至らなかった。 本邦において国学者流の輩の論説厭うべきものが多い。国学者流の輩は、愛国切実なあまり皇統一系を誇るが、惜しいことに国家君民真理知らない結局国土人民全て天皇私有臣僕であるとして、様々な牽強附会こじつけ)の妄説唱え、およそ本邦人民天皇勅命であれば何でも甘受するのを真誠臣道であると説き、これらの姿をもって我が国体と目しこれをもって本邦万国卓越する所以であるという。その見は野鄙であり、その説は陋劣であり、実に笑うべきものである本邦皇統一系であって過去革命がなく今後天壌無窮であることは望ましいことだが、そうであっても国土人民天皇私有臣僕とするような野鄙陋劣国体我が国体とする理は決してない。 欧州においても、近古始めまで国土人民を一君主私有臣僕とした国体であった欧州では、近代人文知識開けるにしたがい旧来の陋劣野鄙な国体次第廃滅し、現在の公明正大国体になった初め英国のみ他の欧州各国卓越したが、その後その他の国々英国に倣うようになったプロイセン王フリードリヒ2世は、当時各国国体天理人性反し野鄙陋劣であるのを嘆き、公正明大国体論説し「われわれ人君天下私有し人民臣僕とする者ではない。国家第一等の高官にすぎないと言ったフランス王ルイ14世の「朕は天神現出した者(現人神)である」という暴言比較してその公私正邪言うまでもない欧州開明をもって国家君臣真理概論し、それによって公明正大な国体示そう国家君民成立の理は、安寧幸福を求める人の天性にある。 この理に合う国体どういうものかというと国家において人民主眼立て、特に人民安寧幸福を目的定め君主政府はこの目的遂げるためにこそ存在するということ国家の大主旨とする国体をいう。 これに対し国土人民君主私有臣僕とした従来国体天理人性背反する。 たとえ万世一系本邦であっても天皇政府はこの理に従って職務尽く必要がある。以上。 国体政体異なる。国体眼目であり、政体眼目達す方法である。国体万国ともに理に背くことは許されないが、政体は必ずしも一つである必要がない君主政体でも民主政体でも公正明大国体維持育成できればよく、政体可否はその国の沿革由来人情風習によって定めればよい。 欧州各国多く立憲君主政体を用い米州各国多く立憲民主政体用いる。 君無限の政体君主政府の暴政生じやすい政体であるので良正の政体いえないが、開化未全の国においてはこの政体でもしばらく必要とせざるをえない。しかし、たとえ君無限の国であってもその国体理に反することを許されない。以上。 以上のように論じる『国体新論』について、岩倉具視7年後回想したところによると、それは島津久光保守主義者)が左大臣だった時で大い議論になったが、その時誰も頓着しなかったという。また内務省神社局 (1921) によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本国体誇り思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之同書ほどなく撤回し同一説二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、天賦人権説反駁しキリスト教攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人ようになったという。 1876年明治9年8月浦田長民が『大道本義』を著す。浦田長民伊勢神宮少宮司であり、神宮大麻全国配布などに功績残した。『大道本義』では、一種神道説を展開しその中で神祖宏業の遺蹟皇位尊厳との関係について述べた1876年明治9年9月元老院憲法起草命ず明治天皇元老院議長熾仁親王召し右大臣岩倉具視侍立のもと、我が建国の体(国体に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲憲法)を起草せよとの勅語下したのである元老院では国憲取調委員国憲取調懸を設けて編纂努力し翌月には第一草案脱稿する。その後再度、稿を改める。 1880年明治13年12月元老院国憲案を天皇上進する。この国憲起草日本初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋模倣したであって国体無視した箇条少なくなかった伊藤博文はこの草案見て、これは各国憲法焼き直しにすぎないであって我が国人情適したものではないと考え右大臣岩倉具視書簡出してこのことを痛論し、天皇思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした。同月伊藤博文奏議に「ただ国会起してもって君民共治の大局成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体変換係る。実に昿古(空前)の大事、決し急躁をもって為すべきにあらず」とある。 1881年明治14年国会開設の勅諭が発さられるその事情は次のようであった。これより先、開拓使官有物払下げ事件起こり、さらにそれが国会開設問題飛び火して、薩長専横のために国会開設されいとして薩長藩閥非難する声が高まった薩長参議国会開設に慎重であるの対し参議の中で大隈重信一人だけ国会早期開設意見書奉呈していたことが知れ渡り人々期待大隈集まった薩長人々はこれを大隈陰謀起因する考え10月11日大隈を除く参議大臣とともに開拓使官有払下中止大隈追放国会開設三事明治天皇奏請した。国会開設奏議は、自由民権運動対す明治政府首脳部反動を示すとともに日本憲法特色示している点で重要である。特に文中に「憲法標準建国源流依るはいうを待たず願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず広く民議を興し公に衆意集めるも、しかも我が皇室大権を墜さず、乾綱総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意要する明治天皇奏議受け入れ、翌12日国会開設の勅諭発した。 〔前略顧みるに、立国の体、国おのおの宜しき殊にす。非常の事業、実に軽挙便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り遺烈揚げ、洪弘め古今変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年期し議員召し国会開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略来たる明治23年1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設一大標語としてき民権論者はその気勢をそがれた感じになった金子堅太郎回想によれば1884年明治17年9月明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯次のようであったという。憲法起草命じられ伊藤博文欧州憲法調査終えて帰国した後、この月の閣議初め憲法制定について意見述べその時議会開けば国体変換する」と説いた参議佐佐木高行は「国体変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤雄弁博識に追い捲られ、閣議伊藤意見決まりそうになった閣議の後、佐佐木制度取調局の金子堅太郎国体字義尋ねて以下のような書簡送った国体とは欧米でも唱えるものなのか。いま国体国体と申すのは何何であるのか。 ある人(伊藤博文曰く国体とは、一系天子千歳連綿いわゆる天壌無窮伝えるのみを意味するではなく日本国なり日本人なり言語なり風俗なりを意味するのであると言うのを聞いた。これに小生佐佐木高行)は甚だ疑惑生じた国体字義漢語であるので、漢国で何の時から唱えたものか漢学者聞いてみたが、漢学者のほうが却って心得がないということであった分けわからない欧米国体相当するはないかと思うし、いま国体国体と申すのは近年のことかとも思う。内密に意見聞きたい。以上。 金子佐佐木官邸訪ねて佐佐木疑問答え、さらに意見書まとめて佐佐木渡した金子意見次のようであった国体時勢とともに変更するという説は、国体政体とを混同することに起因する日本国体称するものは日本固有の政治的名称である。たとえば水戸弘道館記に「宝祚以之無窮国体以之尊厳」というのがそれである。国体万世一系皇統皇位無窮に継承するという日本特有の政治原則である。 欧米でこれと同一意義有するものはない。唯一英国エドマンド・バーク論説中でフランス革命が「英国基礎たる政治原則」(ファンダメンタル・ポリチカル・プリンシプル・オフ・イングランド)を破壊する論じた。この原語こそ日本国体意義に近い。英国君民共治の国柄であり、君民共同して政治をするのが英国の政治根本、すなわち日本にて国体というものと同じである。 欧米政治学によれば一国政体時勢とともに変更することがある日本においても政体時勢とともに変更したことがあったが、国体永久に変更すべきではない。 佐佐木金子意見をもとに後日閣議伊藤反撃した伊藤佐佐木金子入れ知恵したことを知り制度取調局に行って金子問い質した。「おい金子、君は国会開いて国体変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体変更するものなり国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道敷けば山の形が変わる。君が洋服着れば姿が変わる。西洋文明輸入すれば日本言葉変われば家も変わる。議会開けば国体も変わるではないかと言い金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております欧州学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体決し変更してはなりませぬ」「閣下万世一系天皇統治せらるる国体改める御考えですか」等と反駁し互いに譲らず一時間ほど議論したという。

※この「帝国憲法以前」の解説は、「国体」の解説の一部です。
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