帝国憲法と教育勅語
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国体論は帝国憲法と教育勅語により制度と精神の両面で定式化される。帝国憲法は立憲主義を採る一方で、天皇の大権を幅広く定め、日本国民を臣民と位置付ける。教育勅語は臣民の教化をはかり、国体論の経典となる。 1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布される。その際の憲法発布勅語は日本の国体についてその根本を尽くしたといえる。憲法発布勅語にいう。 朕、国家の隆昌と臣民の慶福とをもって中心の欣栄とし、朕が祖宗に承くるの大権により、現在および将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す。おもうに、我が祖、我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼により、我が帝国を肇造し、もって無窮に垂れたり。これ我が神聖なる祖宗の威徳と、ならびに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(とな)い、もってその光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり。朕、我が臣民は、すなわち祖の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、その朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、あいともに和衷協同し、ますます我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、この負担を分つに堪うることを疑わざるなり。 帝国憲法の条文では、大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第1条)、皇位は皇男子孫が継承し(第2条)、天皇は神聖にして侵すべからず(第3条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第4条)と定める。帝国憲法により天皇大権に関することが確定し、これ以後、国体を論じる者は誰でもこの憲法を根拠とする。つまりこの憲法の解釈に託して国体を論じる者が続々と出る。 伊藤博文の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』は次のように説く。 天皇の宝祚(皇位)は祖宗に承けて子孫に伝える。国家統治権の存ずる所である。そして、憲法に天皇大権を掲げて条文に明示するが、これは天皇大権が憲法によって新設されることを意味するのではなく、我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なることを示すのである。 第1条 大日本帝国は万世一系の天皇が統治する。神祖(神武天皇)が建国して以来、時世に盛衰治乱もあったが、皇統は一系であり皇位は天壌無窮である。本条に立国の大義を掲げ、日本帝国は一系の皇統とともに終始し、古今永遠に唯一無二で恒常不変であることを示し、君民の関係を万世に明らかにする。 統治は皇位にある。大権を統べて国土臣民を治めるのである。古典にいわゆるシラスとは、統治の意味にほかならず、おそらくは、祖宗(歴代天皇)が天職を重んじ、君主の徳は国土臣民を統治することにあって、一人一家が享受する私事でないことを示したものである。これが憲法の根拠であり基礎である。 国土と人民とは国が成立する所の元質であり、一定の領土は一定の邦国を為し、一定の憲法はその間に行われる。一国は一個人のようなものであり、一国の領土は個人の体躯のようなものである。これによって統一完全の版図を成す。以上。 第2条 皇位は皇室典範の定めにより皇男子孫が継承する。皇位継承の順序については新たに勅定する皇室典範において詳しく定める。これを憲法の条文に掲げずに皇室の家法とするのは、将来の臣民に干渉させないことを示す。 第3条 天皇は神聖にして侵すべからず。天皇は、その天性として神聖であって臣民どもの上にあり、つつしんで仰ぐべきであって干犯すべきでない。ゆえに君主は法律を尊重しなければならず、法律は君主を問責する力をもたない。 天皇は、単に不敬をもってその身体を侵害してはならないだけでなく、さらに批判や評論の対象外とする。以上。 第4条 天皇は、国の元首にして、統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行う。統治の大権は天皇が祖宗に承けて子孫に伝える。立法と行政は何事も天皇がその綱領を総て握る。これは例えば人身に手足や骨々があって神経回路の本源が頭脳にあるようなものである。よって大政の統一は、個人の心が一つであるのと同じである。 統治権を総攬するというのは主権の体であり、憲法の条規によりこれを行うというのは主権の用である。体があって用がなければ専制に失い、用があって体がなければ散漫に失う。以上。 穂積八束が留学から帰国して早々に帝国大学総長から委嘱をうけ帝国憲法発布の翌々日から帝国大学法科大学にて「帝国憲法の法理」を講演する。帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」について「本条の主意は国体を定むるにあり。国体を定むるとは統治権の主体と客体を定むるということなり。本条の明文によれば統御の主体は万世一系の天皇にあり、しかして統御の客体は大日本帝国にあり」、「万世一系とは公法上いわゆる正統(レヂチメート)たることを決したるなり。我が国体にては初代天皇からの皇統が万世一系の正統の君主であるという意なり。他国の憲法においては王朝(ダイナスチノー)すなわち国王の血統を掲ぐるを通例とすれども、我が邦の憲法には別に朝系を掲ぐるの必要なし。すわなち我が国体の正統は万世一系の天皇であるという主義を表出したまでである」と説く。帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」については「君主は即ち国家なり。国家は統御の主体なり。もしこれに向かって権力を適用する者あらば、国家は則ち国家ならず。権力をもって侵すべからずとは国家固有の性質なり。神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなす所の国体なるがゆえなり」と説く。 有賀長雄は帝国憲法の講義において、万世一系という語はおそらく大日本帝国憲法のみであって他国の憲法に存在できないものであり、これこそ日本の国体がシナや西洋の国体と異なることろである、と説く。 憲法発布のころから国粋主義が勢いを増す。明治の水戸学者内藤耻叟は1889年(明治22年)10月に『国体発揮』を著し、我が国の体面で他国に真似できないところは、皇室が土地所有の主・人民の祖先・教化の本・衣食の原であることによると述べる。穂積八束は1890年(明治23年)5月に国家学会雑誌で国家(即天皇)全能主義を主張する。また同月、皇学を称する一派は惟神学会を組織し機関誌『随有天神(かむながら)』を発行する。こうした動きと時を同じくして教育勅語が渙発される。 1890年(明治23年)10月、明治天皇が教育勅語を下す。先に帝国憲法により法理上から国体の根本を示したのにくわえ、さらに教育上から諭すものであり、ここに道徳的な国是を定め、国体に関して不動の解釈を与えた。教育勅語は明治天皇の意思より出たといっても、その一方で国粋主義流行の結果でもある。またその後の国粋主義を涵養する原動力ともなる。勅語に宣わく「朕おもうに、わが皇祖皇宗、国をはじむること宏遠󠄁に、徳をたつること深厚なり。わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆こころを一にして、世世その美をなせるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」という。ここにおいて教育勅語を基礎として国体を論ずることが盛んになり、勅語衍義などの解説書が続々と発表される。
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