帝国崩壊へとは? わかりやすく解説

帝国崩壊へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:54 UTC 版)

ナポレオン・ボナパルト」の記事における「帝国崩壊へ」の解説

1808年5月ナポレオンスペイン・ブルボン朝内紛介入し半島戦争)、ナポリ王就けていた兄のジョゼフ今度スペイン王就けたナポレオン軍スペイン人虐殺描いたゴヤ絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。同5月17日ナポレオン1791年9月27日ユダヤ人同権化法例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権商業職業選択住居移転に限ることとした。一方ジョゼフ・ボナパルトの治世が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した1808年7月スペイン軍ゲリラ連合軍前にデュポン将軍率いフランス軍降伏皇帝即位して以来ヨーロッパ全土支配下入れてきたナポレオン陸上での最初の敗北だった。8月イギリスポルトガルとの英葡永久同盟により参戦し半島戦争発展したイギリスではネイサン・メイヤー・ロスチャイルド1798年マンチェスター開業しており、半島戦争までにアーサー・ウェルズリー通じていた。 ナポレオンスペイン苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年ナポレオンに対して再び起ち上がりプロイセン参加しなかったもののイギリス組んで第五次対仏大同盟結成する4月のエックミュールの戦い英語版)ではナポレオン勝利し5月には二度目ウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いナポレオンオーストリア軍敗れジャン・ランヌ元帥戦死した。しかし続く7月ヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人上の兵が激突両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオン勝利したそのままシェーンブルンの和約結んでオーストリア領土削り第五次対仏大同盟消滅した。 この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌ後嗣生めないと言う理由離別して1810年オーストリア皇女マリ・ルイーズ再婚した。この婚約当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなったオーストリア皇女決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒ裁定よるものであった。そして1811年王子ナポレオン2世誕生すると、ナポレオンはこの乳児ローマ王地位就けた大陸封鎖令出されたことでイギリス物産受け取れなくなった欧州諸国経済的に困窮し、しかも世界の工場呼ばれたイギリス代わり重農主義フランスが担うるのは無理があったため、フランス産業苦境陥った1810年にはロシア大陸封鎖令破ってイギリスとの貿易再開。これに対しナポレオン封鎖令の継続求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年ナポレオン対ロシア開戦を決意同盟諸国兵を加えた60大軍ロシア侵攻する。これがロシア遠征であり、ロシア側では祖国戦争呼ばれるロシア軍司令官隻眼老将ミハイル・クトゥーゾフである。老獪な彼は、いまナポレオン戦え確実に負けると判断し広大なロシア国土活用し会戦避けてひたすら後退しフランス軍進路にある物資食糧全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍疲弊を待つ。 荒涼としたロシア原野を進むフランス軍兵站苦しみ脱落者が続出モスクワ前面ボロジノの戦いでは、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワ制圧すればロシア降伏するか、食糧手に入る期待していたナポレオンは、ボロジノロシア軍破ってついにモスクワへ入城するが、市内潜伏しロシア兵その夜各所放火モスクワ3日燃え続けた大火焼け野原化したロシアの冬目前にして、物資獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点遠征の失敗を悟る。フランス軍撤退開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵繰り出してフランス軍追撃させた。コサック襲撃冬将軍とが重なりロシア国境まで生還したフランス兵全軍1%以下の、わずか5,000であった敗報届いたパリではクーデター事件発生した未遂終わり首謀者マレフランス語版将軍銃殺)。ナポレオンクーデター発生の報を聞き仏軍撤退指揮後任任せ一足先に脱出帰国する。この途上ナポレオン大陸軍惨状嘆き百年前の大北方戦争思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世のようにはなりたくない」と漏らしたという。 この大敗見た各国一斉にナポレオン行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国呼びかけ第六次対仏大同盟結成する。この同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオン意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットスウェーデン7月参加したロシア遠征数十の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、リュッツェンの戦いバウツェン戦い英語版)に勝って休戦持ち込んだオーストリアメッテルニヒ介した和平交渉不調に終わった後、オーストリア参戦して同盟軍ナポレオン本隊との会戦避けるトラーヒェンブルク・プランを採用ナポレオン部下たちを次々と破ったドレスデンの戦いナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍破った敗走する敵を追撃したフランス軍クルム戦い英語版)で包囲され降伏10月ライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍包囲され大敗しフランスへ逃げ帰った1814年になるとフランス取り巻情勢はさらに悪化したフランス北東にはシュヴァルツェンベルクドイツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万人北西にはベルナドットスウェーデン軍16万人南方ではウェリントン公率いイギリス軍10万人の大軍フランス国境を固め大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦い強いられた3月31日にはフランス帝国首都パリ陥落するナポレオン外交によって退位終戦目指したが、マルモン元帥の裏切りによって無条件退位させられ4月4日の「将軍連の反乱」)、4月16日フォンテーヌブロー条約締結ののち、地中海コルシカ島イタリア本土の間にあるエルバ島小領主として追放された。この一連の戦争解放戦争呼ばれるその際フランツ1世使者名乗る人物が突然マリー=ルイーズところにやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世連れていってしまった。 4月12日全て絶望したナポレオンフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺図ったとされている。ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世後継者として望んだが、同盟国側認められなかった。また元フランス軍人であり次期スウェーデン王推戴されていたベルナドットフランス王位を望んだが、フランス側反発砕かれ紆余曲折の末にブルボン家後継選ばれた(フランス復古王政)。

※この「帝国崩壊へ」の解説は、「ナポレオン・ボナパルト」の解説の一部です。
「帝国崩壊へ」を含む「ナポレオン・ボナパルト」の記事については、「ナポレオン・ボナパルト」の概要を参照ください。

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