帝国崩壊へ
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「ナポレオン・ボナパルト」の記事における「帝国崩壊へ」の解説
1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し(半島戦争)、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフを今度はスペイン王に就けた。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画(『マドリード、1808年5月3日』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791年9月27日のユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、向こう10年間彼らの享有できる人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。一方、ジョゼフ・ボナパルトの治世が始まるやいなやマドリード市民が蜂起した。1808年7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月にイギリスがポルトガルとの英葡永久同盟により参戦し、半島戦争に発展した。イギリスではネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが1798年にマンチェスターで開業しており、半島戦争までにアーサー・ウェルズリーと通じていた。 ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦い(英語版)ではナポレオンが勝利し、5月には二度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れ、ジャン・ランヌ元帥が戦死した。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。 この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって立ち消えとなった。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。 大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンは対ロシア開戦を決意、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これがロシア遠征であり、ロシア側では祖国戦争と呼ばれる。 ロシア軍の司令官は隻眼の老将・ミハイル・クトゥーゾフである。老獪な彼は、いまナポレオンと戦えば確実に負けると判断し、広大なロシアの国土を活用し、会戦を避けてひたすら後退し、フランス軍の進路にある物資や食糧は全て焼き払う焦土戦術で、辛抱強くフランス軍の疲弊を待つ。 荒涼としたロシアの原野を進むフランス軍は兵站に苦しみ、脱落者が続出、モスクワ前面のボロジノの戦いでは、開戦前から兵力が1/3以下になっていた。モスクワを制圧すればロシアが降伏するか、食糧が手に入ると期待していたナポレオンは、ボロジノでロシア軍を破ってついにモスクワへ入城するが、市内に潜伏したロシア兵がその夜各所に放火、モスクワは3日間燃え続けた大火で焼け野原と化した。ロシアの冬を目前にして、物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したナポレオンは、この時点で遠征の失敗を悟る。フランス軍が撤退を開始したことを知ったクトゥーゾフは、コサック騎兵を繰り出してフランス軍を追撃させた。コサックの襲撃と冬将軍とが重なり、ロシア国境まで生還したフランス兵は全軍の1%以下の、わずか5,000人であった。 敗報の届いたパリではクーデター事件が発生した(未遂に終わり、首謀者のマレ(フランス語版)将軍は銃殺)。ナポレオンはクーデター発生の報を聞き、仏軍の撤退指揮を後任に任せ、一足先に脱出帰国する。この途上でナポレオンは大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世のようにはなりたくない」と漏らしたという。 この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットのスウェーデンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシアなどの反仏同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦い(英語版)に勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦して同盟軍はナポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。ドレスデンの戦いでナポレオンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍がクルムの戦い(英語版)で包囲されて降伏。10月のライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。 1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化した。フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク(ドイツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万人、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万人、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万人の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万人の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日の「将軍連の反乱」)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結ののち、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。その際、フランツ1世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズのところにやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世を連れていってしまった。 4月12日、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおって自殺を図ったとされている。ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められなかった。また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末にブルボン家が後継に選ばれた(フランス復古王政)。
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