最初の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 14:26 UTC 版)
政構研は飛鳥田執行部を批判し、その交代を求めた。1981年12月、一般党員を含めた社会党委員長選挙が行われると、政構研は飛鳥田委員長の対抗馬として武藤山治政策審議会長を推薦した。当初は旧佐々木派の社会主義研究会(社研)との党内調整を図り、堀昌雄前政審会長の擁立を求めたが、社研では下平正一副委員長の立候補の決意が固く、一本化を断念した。選挙で武藤は25.4%の得票にとどまり、中間左派の勝間田清一派の政策研究会や党内若手グループの新生研究会の支持も得た飛鳥田に70%近い得票を許して大敗した。 続く1982年2月の党大会では党内融和を求める総評などの意見を背景に書記長ポストの獲得を求め、山口や田邊誠らの名前も挙がった。しかし選挙での大勝で自信を深めた飛鳥田支持派はこれを拒否し、新生研究会の馬場昇を選出した。これで政構研は飛鳥田をさらに強く拒絶し、執行部入りしたのは森永栄悦組織局長のみいう徹底抗戦体制を敷いた。ただし、公明党との社公連合政権構想などにより実情にそぐわなくなった「道」の見直しが盛り込まれたのは政構研にとっての成果だった。
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