第1、第2の哨戒 1942年2月 - 6月
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「グレナディアー (SS-210)」の記事における「第1、第2の哨戒 1942年2月 - 6月」の解説
2月4日、グレナディアーは最初の哨戒で日本近海に向かった。2月9日にミッドウェー島で燃料を補給して出港するが、出港直後に9番発射管の外装扉が開かなくなるという事故が発生し、事故原因は帰投するまでの間は特定できなかった。2月26日には、ポンプ室が水浸しになる事故も発生する。哨戒では何隻か目標を発見し、3月7日午後には北緯36度38分 東経141度00分 / 北緯36.633度 東経141.000度 / 36.633; 141.000の地点で2隻の輸送船を発見し、特設運送船朝日山丸(三井船舶、4,550トン)に魚雷を命中させて撃破した。3月23日、グレナディアーは48日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリス・A・レント(英語版)中佐(アナポリス1925年組)に代わった。 4月12日、グレナディアーは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。グレナディアーの予定哨戒海域は、上海と横浜、台湾と長崎の各航路が交差しているとみられた。4月25日昼ごろ、北緯30度09分 東経143度08分 / 北緯30.150度 東経143.133度 / 30.150; 143.133の地点を西航中のグレナディアーはレーダーで5マイルから6マイルの距離に航空機を探知し、急速潜航を行う。一方、空母祥鳳の艦載機が潜航しつつあるグレナディアーを発見し三発の爆弾を投じるがグレナディアーに打撃を与えるには至らず、特に三発目の爆弾はグレナディアーから離れた所に落ちた。5月1日夜、グレナディアーは北緯32度05分 東経127度41分 / 北緯32.083度 東経127.683度 / 32.083; 127.683の地点で貨物船を発見し、魚雷を3本発射して2本を命中させ撃沈した。グレナディアーは日本船とばかり思っていたが、実は同盟国のソ連船アンガルストロイ(4,761トン)であった。アンガルストロイは、4月18日のドーリットル空襲の手引きをしたのではないかという疑いで一時拿捕され、4月28日に釈放されたばかりであった。2日後の5月3日には小型トロール船と小型貨物船、橋立型砲艦と思しき艦艇を発見するが、攻撃するには的が小さかったり距離が遠すぎるなどの理由で攻撃しなかった。5月4日から6日までは価値ある目標を求めて鹿児島湾口に移動して哨戒したが、サンパンしか見なかったので再び西航する。5月8日夜、グレナディアーは北緯30度45分 東経127度40分 / 北緯30.750度 東経127.667度 / 30.750; 127.667の女島灯台南南西255キロ地点で馬公に向かう第109船団を発見した。19時35分、グレナディアーは最も大型の貨客船大洋丸(日本郵船、14,457トン)に向けて魚雷を発射した。後部に1本、前部に2本命中させ、大洋丸は積荷のカーバイドが発火して船体は傾斜し21時前後に沈没した。大洋丸には南方占領地に赴任する学者や技術者、および経済発展に従事する予定の要人や台湾の烏山頭ダムの建設に携わった水利技術者の八田與一ら多数が乗船していたが、そのほとんどは死亡しこれらの人材の喪失は日本の占領地運営、ひいては戦争遂行努力に対して少なからぬ打撃を与えた。5月12日にも500トンから1,000トン程度の小型船を発見する。5月25日、グレナディアーはミッドウェー島近海に急行するよう命令を受け、5月30日には指定された海域に到着。日本艦隊がミッドウェー島に接近しつつあり、グレナディアーは他の潜水艦とともにミッドウェー島西方に配備された。アメリカ艦隊が日本艦隊に300年間で最初の敗北を与え、海戦に勝利した。グレナディアーは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投し、グレナディアーの艦長はブルース・L・カー少佐(アナポリス1931年組)に代わった。
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