第1、第2の哨戒 1943年1月 - 6月
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「ソーフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1943年1月 - 6月」の解説
1月31日、ソーフィッシュは最初の哨戒で日本近海に向かった。哨戒中に何隻かの船を攻撃してそれらを撃沈あるいは損傷を与えたと判断した。しかし、戦後日本側及びアメリカ側の資料を注意深く確認すると、ソーフィッシュは最初の哨戒では日本船に対しては戦果を挙げていなかった。2月17日朝、ソーフィッシュは北緯30度45分 東経135度30分 / 北緯30.750度 東経135.500度 / 30.750; 135.500の地点でレーダーにより2隻の輸送船がやってくるのを探知。魚雷を3本発射して命中させ1隻を撃沈。陽が高く上って視界もよくなり、新たな輸送船がやってくるのが見えた。それらは、当時は中立の立場にあったソ連の貨物船だったが、観測していたサンズ艦長は商船に翻るソ連船舶旗を見て「日本がソ連船舶旗を掲げてソ連船に成りすましている」と思っていたが、次々と現れる4隻のソ連船舶旗を掲げた輸送船を見て、そうではないことを悟った。夜になって浮上攻撃で輸送船に対して魚雷を3本発射。魚雷は命中し目標は沈没した。ところが、昼間に見た商船群がソ連輸送船ならば、朝と夜に撃沈した2隻の輸送船も、実はソ連のイルメン (Ilmen、2,369トン) とコラ (Kola、4,994トン) だった。ソーフィッシュは誤認撃沈をしたこととなった。2月21日夜、ソーフィッシュは北緯29度30分 東経133度00分 / 北緯29.500度 東経133.000度 / 29.500; 133.000の沖大東島沖で特務艦大瀬を発見し、魚雷を二度にわたって3本ずつ発射、撃沈と判断したが、大瀬は小破にとどまった。3月6日午後には北緯30度53分 東経132度38分 / 北緯30.883度 東経132.633度 / 30.883; 132.633の都井岬沖でパラオからの陸軍輸送船3隻を発見し、魚雷を3本発射。魚雷は陸軍輸送船くらいど丸(南洋海運、5,497トン)の機関室に命中し、これを撃破した。帰途途中の3月20日には、北緯32度50分 東経151度58分 / 北緯32.833度 東経151.967度 / 32.833; 151.967の地点で特設監視艇新勢丸を発見。3インチ砲と20ミリ機銃で損傷を与えた。3月25日、ソーフィッシュは53日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 4月15日、ソーフィッシュは2回目の哨戒で日本近海に向かった5月5日夕刻、ソーフィッシュは北緯34度05分 東経137度35分 / 北緯34.083度 東経137.583度 / 34.083; 137.583の大王崎近海で輸送船白海丸(北日本汽船、2,921トン)と水雷艇真鶴を発見し、魚雷を4本ずつ発射して2本を白海丸に命中させて撃沈したが、真鶴には命中しなかった。2週間後の5月20日夜には北緯32度45分 東経136度35分 / 北緯32.750度 東経136.583度 / 32.750; 136.583の地点で、駆逐艦の護衛を配した大型艦6隻を発見。4月18日に戦死した連合艦隊司令長官山本五十六元帥の遺骨を載せ、またアッツ島の戦いの支援に向かうため横須賀に向かっていた戦艦武蔵などから成る艦隊を発見したソーフィッシュは、艦隊におよそ8,200メートルまで接近し約2時間追跡したが、最終的には悪天候の中見失ってしまった。6月6日、ソーフィッシュは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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