第1、第2の哨戒 1943年5月 - 8月
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「ティノサ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1943年5月 - 8月」の解説
5月3日、ティノサは最初の哨戒で日本近海に向かった。5月29日夜、ティノサは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度00分 東経131度51分 / 北緯32.000度 東経131.850度 / 32.000; 131.850の日向灘で、2つの小さな目標をレーダーで探知する。目標のうち「7,000トン輸送船」に対してまず魚雷を4本発射し、2つの爆発があったとした。二度目の攻撃でティノサは浮上し、浮上砲戦で少なくとも一発の命中弾を与えたとする。目標は止まったと判断され、ティノサは砲戦に次いで魚雷を4本発射したが、2本ずつ左右に逸れてゆき命中しなかった。業を煮やしたティノサは、三度目の攻撃で再び魚雷を4本発射したが、やはり命中しなかった。四度目の攻撃では魚雷を2本発射し、1本が命中したように見えた。攻撃を受けた陸軍輸送船新東丸(沢山汽船、1,215トン)は、反撃でティノサの司令塔に二発の命中弾を与えて、さらに馬乗りになったと報告した。いずれにせよ、ティノサは新東丸を撃沈することはできなかった。ティノサは西方に移動し、6月5日朝には僚艦シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) を確認したのち、北緯30度52分 東経125度30分 / 北緯30.867度 東経125.500度 / 30.867; 125.500の地点で第268船団を発見して魚雷を2本発射し、「伏見丸級輸送船」、実際には輸送船対馬丸(日本郵船、6,754トン)に1本が命中したが不発に終わった。シーウルフは攻撃のタイミングがつかめなかった。午後にシーウルフとともに浮上したが、シーウルフだけが第268船団を護衛していた第36号哨戒艇に追いかけられ、ティノサは短時間浮上砲戦を行ってからスコールの中に逃げ込んで事なきを得た。ティノサは再び東に移動。6月9日夕刻、ティノサは北緯31度14分 東経132度44分 / 北緯31.233度 東経132.733度 / 31.233; 132.733の細島南東海上で、2月27日にジャルート環礁沖でプランジャー (USS Plunger, SS-179) の雷撃を受けて艦尾を損傷し、航行不能状態のところをジャルートから40数日かけて、特設運送船興津丸(日本郵船、6,666トン)の手によって本土に曳航されていた特務艦石廊を発見する。ティノサのダスピット艦長は、この時点で残っていた6本の魚雷をいつでも発射できるよう用意させて追跡を行い、翌6月10日早朝にいたり、ティノサは北緯31度52分 東経132度25分 / 北緯31.867度 東経132.417度 / 31.867; 132.417の地点で魚雷を4本発射した。うち2本が命中したと判断されたが、攻撃直後から護衛の2隻の特設掃海艇、第八拓南丸(日本海洋漁業、343トン)と第六玉丸(西大洋漁業、275トン)からの爆雷による攻撃を受け、12発の爆雷を投じられたティノサは、頭上で爆発した爆雷で艦橋内の機器が故障した。それでも危機を脱したティノサは修理を行って哨戒を続けた。6月19日、ティノサは47日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。修理に従事した。 7月7日、ティノサは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。7月15日、ティノサは北緯10度20分 東経151度25分 / 北緯10.333度 東経151.417度 / 10.333; 151.417の地点で4隻の空母、2隻の重巡洋艦、1隻の軽巡洋艦および何隻かの駆逐艦からなる日本艦隊を発見。艦隊は小沢治三郎中将率いる第三艦隊であり、ティノサは魚雷を4本発射したが命中しなかった。7月20日朝には、北緯05度11分 東経147度19分 / 北緯5.183度 東経147.317度 / 5.183; 147.317の地点で「川崎型油槽船」を発見して魚雷を4本発射して2本が命中したように見え、ティノサは浮上砲戦を試みたが、反撃を受けてあきらめた。 7月24日朝、ティノサは北緯06度53分 東経147度53分 / 北緯6.883度 東経147.883度 / 6.883; 147.883のトラック西方230海里の地点で駆逐艦玉波の護衛の下、パラオからトラックに向かっていた特設運送船第三図南丸(日本海洋漁業、19,210トン)を発見した。ティノサは正しく目標を認識し、攻撃位置について9時28分に第三図南丸に向けて魚雷を4本発射。2本の命中音を確認したが、特段の変化を認めなかった。ティノサは爆雷攻撃に備えつつ左舷側に回り、9時38分の二度目の攻撃で魚雷を2本発射、魚雷は船尾に命中し爆発した。第三図南丸はスクリューを破損したため航行不能に陥り、爆雷攻撃が始まりつつあったものの最大のチャンスが到来した。ティノサは止めを刺そうと左舷真横から800メートルの距離を置いて1本発射した。しかし、これもまた命中音は聞こえたが不発に終わった。以後、10時11分、10時14分、10時39分、10時48分、10時50分、11時にそれぞれ1本ずつ発射して命中させたが、いずれも爆発しなかった。そのうち、駆逐艦の甲高いスクリュー音が聞こえ、11時31分と32分に1本ずつ発射したが、やはり爆発することはなかった。ダスピット艦長は、戦時日誌に繰り返し "No effect" (変化なし)と記す羽目となった。第三図南丸被雷の報により、トラック在泊の軽巡洋艦五十鈴や駆逐艦朝凪などは16時30分にトラックを出撃。五十鈴に曳航された第三図南丸は、7月28日にトラックに到着した。ティノサは、搭載魚雷24本のうち、証拠品として保全した1本を残して全て消費し、ティノサのダスピット艦長は真珠湾への帰投を命じた。8月4日、ティノサは27日間の「不本意な」行動を終えて真珠湾に帰投した。 帰投後、ティノサのダスピット艦長は潜水部隊司令部に猛抗議を行った。ダスピット艦長の抗議の受理先である太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)は言う。 私は兵站局(英語版)とニューポート、魚雷供給先の連中がぐずぐずしていることに我慢できなかった。私は、ダン(注:ダスピットの愛称)が19,000トンのタンカーを撃沈できなかったことを非難することはできなかった。私が察するに、ダンの怒りは相当なものだったように思う。彼の話は一見信じがたいようなものであるが、証拠が彼の話を否定することを妨げた。 — チャールズ・A・ロックウッド、 太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)の特別許可により、チャールズ・モンセン(英語版)大佐(アナポリス1916年組)がマウイ島南岸のカホオラウェの断崖を標的に実物の魚雷を使って発射実験を行なったが、結果は2本が爆発したものの、残る1本は不発に終わった。回収後の原因調査の結果、マーク14型魚雷の磁気信管に使用していたマーク6型信管と爆発尖の不良によるものであった。爆発尖は目標と直角にならない時に一番爆発する確率になるようバネとベアリングが調整されており、直角かそれに近い角度で命中すると、雷管につながるピンが折れて爆発しなくなる代物であった。第三図南丸に命中した魚雷のうち、爆発したものについては最適な角度で発射されたため爆発したものであると結論付けられた。要は、爆発しなかったものについては、第三図南丸が動かないことをよいことに真横から発射したものの、すべて爆発尖が折れてしまい爆発しなかったということである。爆発尖の改修は意外なもので解決した。真珠湾攻撃時に撃墜した日本機から回収したプロペラを再利用した合金であり、開戦21か月目にして信頼できる爆発尖を得ることができた。 このマーク14型魚雷に関する問題は開戦劈頭から存在しており、1941年12月13日以降にサーゴ (USS Sargo, SS-188) が絶好のポジションから13本の魚雷を発射して13本すべてが外れるという事例があり、次いでロックウッド中将がフリーマントルの潜水部隊司令官在任中(当時少将)の1942年6月20日から漁網を目標にした発射実験を行い、3メートルに深度調整して780メートル先の漁網に向けて発射したところ、魚雷は8メートルの深度を通過して漁網を潜り抜けてしまった。実験を重ねたロックウッド少将は兵站局に改善を促していたが兵站局はこれを拒否。紛糾の末に、8月1日になってようやくニューポートでの実験でロックウッド少将の主張の裏付けが取れたことにより、深度調整装置の改修が行われた。しかし、磁気信管に関する不具合を兵站局が認めたのは1943年4月27日のことであり、ニミッツ大将とロックウッド中将は磁気信管の使用停止を命じたものの、7月24日までには間に合わなかった。また、ブリスベンの潜水部隊司令官から魚雷問題の対処のためアメリカに帰国していたラルフ・クリスティ(英語版)少将(アナポリス1915年組)は、かつて自分が開発にかかわったマーク14型魚雷と磁気信管の不具合を頑として認めず、潜水部隊司令官に復帰しても指揮下の潜水艦に磁気信管を使わせていた。
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