第1、第2の哨戒 1943年8月 - 12月
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「ビルフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1943年8月 - 12月」の解説
8月12日、ビルフィッシュは最初の哨戒で南シナ海に向かった。トレス海峡を経由してダーウィンに寄港した後、哨区に到着。8月29日にバラバク海峡でタンカーを攻撃した後、9月8日朝、ビルフィッシュは5隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、レーダーを使用して攻撃。魚雷は1本が輸送船に命中し撃破したと判断された。9月25日朝、ビルフィッシュは5隻の輸送船からなる別の輸送船団を発見し、ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) とボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) を呼び寄せて再びレーダーを使って攻撃し、タンカー1隻を撃破したと判断された。10月10日、ビルフィッシュは59日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 11月1日、ビルフィッシュは2回目の哨戒で南シナ海に向かった。しかし、11月11日にマカッサル海峡を潜航航行中、千鳥型水雷艇あるいは鴻型水雷艇と思しき艦艇による爆雷攻撃でビルフィッシュは大きく損傷した。ビルフィッシュは580フィート (177メートル)の深海に潜航したが、それは試験深度を170フィート(52メートル)以上も超えていた。乗組員の大半が重傷を負い、チャールズ・ラッシュ中尉は自分が任務を遂行できる唯一の士官であることを理解した。ラッシュ中尉は艦の指揮を執り、攻撃の回避を試みた。艦は燃料タンクを破損したため重油が漏れ、敵艦はその跡を追っていたことが分かったため、ラッシュ中尉は艦を正確に後退させ、油の跡に紛れようとした。この間に主任技師のジョン・D・レンダニックが緊急修理に取り組んでいた。それは衝撃で基礎から外れた主電動機の位置を油圧ジャッキで変更する作業と、漏水の激しい後部魚雷発射管をグリースで埋める作業が含まれた。12時間後に攻撃は終了した。その4時間後、夜に隠れてラッシュ中尉は艦を浮上させた。一機の発電機を使って充電を行い、修理を完了した後、大損傷を受けてはいたものの哨戒を続けた。11月28日にはインドシナ半島沖でボーフィンとともに340船団を攻撃し、6,000トン輸送船1隻の撃破を報じた。12月24日、ビルフィッシュは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。ラッシュ中尉はこの戦闘航海における功績で海軍殊勲章を受章した。レンダニックは死後に海軍銀星章を受章した。また、2004年8月17日に真珠湾に所在する海軍潜水艦教育訓練隊のジョン・D・レンダニック・ダメージ・コントロール・ウェット・トレーナーは彼に因んで命名された。艦長がヴァーノン・C・ターナー(アナポリス1933年組)に代わった。
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第1、第2の哨戒 1943年8月 - 12月
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「パーゴ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1943年8月 - 12月」の解説
8月18日、パーゴは最初の哨戒で東シナ海に向かった。9月4日未明、パーゴは北緯30度13分 東経128度16分 / 北緯30.217度 東経128.267度 / 30.217; 128.267の地点でサ12船団を発見し、魚雷を4本発射。魚雷はタンカー隆栄丸(日東汽船、5,142トン)に命中し、隆栄丸は大火災を発生させたものの沈没は免れて長崎に引き返した。2日後の9月6日夜には、北緯31度25分 東経129度07分 / 北緯31.417度 東経129.117度 / 31.417; 129.117の地点でレーダーにより6隻の第194船団を探知し、追跡の上翌9月7日未明に魚雷を6本発射。「全ての魚雷の命中を確認した」としたが、第194船団に被害はなかった。それでもこの哨戒で、4隻27,600トンの戦果を挙げたと判断していた。10月6日、パーゴは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 10月30日、パーゴは2回目の哨戒でハーダー (USS Harder, SS-257)、スヌーク (USS Snook, SS-279) とウルフパックを構成しマリアナ諸島方面に向かった。11月19日未明、パーゴは北緯22度28分 東経147度22分 / 北緯22.467度 東経147.367度 / 22.467; 147.367のサイパン島沖で4隻の輸送船に駆逐艦夕月と海防艦福江が護衛する第4111船団を発見し、ハーダーおよびスヌークと連携して攻撃を行う。しかし、駆逐艦および輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射したものの、命中しなかった。11月28日午後、パーゴは北緯18度21分 東経140度08分 / 北緯18.350度 東経140.133度 / 18.350; 140.133のサイパン島北西海域で第3123船団を発見。先にスヌークが攻撃を仕掛け、その後まもなくパーゴも攻撃した。パーゴは28日夜に魚雷を3本発射し、次いで11月29日未明に魚雷を4本発射した。魚雷は海軍徴傭船萬寿丸(岡田商船、5,975トン)と特設運送船昭興丸(東和汽船、1,933トン)に命中して、2隻とも撃沈した。スヌークも2隻撃沈し、第3123船団にいた5隻の輸送船のうち、4隻を撃沈したこととなった。11月30日夜にも北緯15度20分 東経140度38分 / 北緯15.333度 東経140.633度 / 15.333; 140.633の地点で輸送船団を発見し、魚雷を計8本発射していくつかの爆発を確認した。12月1日未明にも魚雷を3本発射した上、浮かんでいた救命ボートに対して20ミリ機銃による射撃を行ったあと、海域を去った。11月30日から12月1日の攻撃では、「10,000トン級タンカーを撃沈した」と判定された。12月8日、パーゴは40日の行動を終えてミッドウェー島に帰投。12月13日に真珠湾に到着したあと、「H.O.R.エンジン搭載艦は1隻残らず、暫時エンジンを換装するように」という合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将の命令が出ていたので、該当艦の1隻であるパーゴはメア・アイランド海軍造船所に回航され、GM社製278A16気筒エンジンに換装。パーゴは1944年3月5日に戦列に復帰した。
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