第1、第2の哨戒 1944年1月 - 4月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 20:38 UTC 版)
「アングラー (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1944年1月 - 4月」の解説
1944年1月10日、アングラーは最初の哨戒でマリアナ諸島に向かった。1月27日、アングラーは北緯23度58分 東経145度50分 / 北緯23.967度 東経145.833度 / 23.967; 145.833の地点でサンパンを発見し、砲撃で撃沈。15歳の少年を捕虜として収容し、少年の話から、このサンパンは室戸の漁船であり、13名が乗り組んでそのうちの1人が少年の父親であることが判明した。2日後の1月29日未明、アングラーは北緯27度03分 東経142度27分 / 北緯27.050度 東経142.450度 / 27.050; 142.450の地点で4隻の輸送船団を発見し、魚雷を3本発射して2本を大型タンカーに命中させて撃沈したと報じる。続く二度目の攻撃では魚雷を6本発射し、1本が中型輸送船に命中したように思えた。三度目の攻撃では魚雷を3本発射し、この攻撃では中型タンカーに2本が命中して撃沈したと判断された。アングラーはタンカー2隻を撃沈、輸送船1隻を撃破したと報告。実際には特設捕獲網艇珠江丸(三光汽船、890トン)を撃沈した。その後、静粛航行の妨げになる不具合が明らかになったので哨戒を打ち切った。2月4日、アングラーは25日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投し、修理を行った。 2月15日、アングラーは2回目の哨戒でミンダナオ海およびスールー海方面に向かった。アングラーがフィリピンに近づきつつあった時、南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサー大将が「日本軍がパナイ島で民間人を虐殺していた」ことを知り、パナイ島から生き残った民間人を助ける作戦を検討した。その作戦にアングラーが起用されることとなった。アングラーはスリガオ海峡、ミンダナオ海と通過。3月19日未明、アングラーは北緯08度13分 東経122度27分 / 北緯8.217度 東経122.450度 / 8.217; 122.450の地点でレーダーにより目標を探知し、浮上攻撃で魚雷を4本発射したが命中しなかった。3月20日夕刻、アングラーはパネー島の会合点に接近して虐殺から逃れて生き残った老若男女58名を救助した。作戦自体は成功裏に終わったものの、その後が大変だった。難民を収容するのに、魚雷発射管室の一角を提供し、食事は乗組員向けのものを一部難民に回したため、乗組員食事は1日2回と減った。フリーマントルに近づくにしたがって乗組員も難民も不快感が増し、オルセン艦長に至っては「真水タンクが汚染されたかも知れない」と信じ込む始末となった。4月1日にダーウィンに寄港。4月9日、アングラーは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。帰投後、真水タンクを綺麗にするよう整備員に要求した。
※この「第1、第2の哨戒 1944年1月 - 4月」の解説は、「アングラー (潜水艦)」の解説の一部です。
「第1、第2の哨戒 1944年1月 - 4月」を含む「アングラー (潜水艦)」の記事については、「アングラー (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第1、第2の哨戒 1944年1月 - 4月のページへのリンク