第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月とは? わかりやすく解説

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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/02 06:53 UTC 版)

シーレイヴン (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説

12月9日、シーレイヴンは最初哨戒台湾方面向かった台湾海峡方面などで哨戒し、哨戒間中マニラ陥落危機迫ったので、シーレイヴンは任務完了の際にはダーウィンに向かうよう指示された。シーレイヴンはセレベス島近海モルッカ海などを哨戒しつつダーウィン向かった途中でいくつかの目標発見したものの、攻撃には至らなかった。1942年1月19日、シーレイヴンは41日間行動終えてダーウィン帰投した。 1月28日、シーレイヴンは2回目の哨戒南シナ海インドシナ半島方面向かった2月3日、シーレイヴンはモルッカ海峡における夜間の戦闘吹雪型駆逐艦思しき艦艇交戦してこれを撃沈し最初戦果上げた判断され、これはバターン半島コレヒドール島包囲されたアメリカ・フィリピン両軍への補給アシストとして称えられた。3月12日、シーレイヴンは43日間行動終えてフリーマントル帰投艦長がハイラム・キャシディー少佐アナポリス1931年組)に代わった。

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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:17 UTC 版)

サーモン (SS-182)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説

12月20日サーモン最初哨戒フィリピン沿岸部向かった12月22日から23日にかけての夜、サーモンリンガエン湾浮上中に2隻の日本駆逐艦皐月水無月遭遇し、これを攻撃した魚雷放射状発射することで両方目標損傷与えた判断され敵艦コース反対方向変えていったと報告した当の皐月爆雷攻撃対抗したその後サーモンスコール中に隠れ、敵との接触回避した1942年入ってサーモン南へ移動ダバオ湾(英語版)およびミンダナオ島南端活動し続いてモルッカ諸島ブル島セラム島の間にあるマニパ海峡移動した2月入ってからは、サーモンフローレス海次いでティモール島北方からスンダ列島ロンボク海峡哨戒した。2月13日サーモン55日間行動終えてジャワ島南岸のチラチャップ(英語版)に帰投した。 2月18日日本軍によるバリ飛行場占拠、および2月20日バリ島沖海戦での米英豪軍敗北で、スラバヤ米英総司令部英語版)の基地放棄余儀なくされ、チラチャップは危機さらされた。潜水母艦ホーランド2月20日にその拠点オーストラリアエクスマウス湾(英語版)に退却することとなった2月20日サーモン2回目の哨戒ジャワ海向かった。セパンジャンとバウェアン島真西海域哨戒2月24日サーモン大型船駆逐艦発見したものの、爆雷攻撃阻まれ目標上手く近接する事ができず、攻撃不徹底なものとなった。翌2月25日にも単独航行中大型船発見し複数雷撃行った目標高速に物を言わせ去っていった。3月2日未明サーモン別の単独航行大型船発見し魚雷を4本発射した命中しなかった。その5時間後、今度は3隻の輸送船発見した駆逐艦阻まれ、2発の爆雷によって退散させられた。日没後、2隻の輸送船と2隻の駆逐艦発見して接近していったものの、またもや駆逐艦爆雷攻撃阻止され攻撃できなかった。3月5日には香取型練習巡洋艦思しき艦艇に対して魚雷発射したが、命中しなかった。3月23日サーモン31日間の行動終えてフリーマントル帰投した。

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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:11 UTC 版)

スピアフィッシュ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説

12月8日日本軍による真珠湾攻撃が行われた。スピアフィッシュ艦長ローランド・F・プライス少佐アナポリス1927年組)の指揮下、最初哨戒南シナ海およびインドシナ半島方面向かったスピアフィッシュ仏領インドシナサイゴンカムラン湾ボルネオ島タラカンおよびバリクパパン方面哨戒した。12月20日スピアフィッシュ日本軍潜水艦遭遇して水中攻撃行い、4本の魚雷発射したが、全弾が外れた1942年1月24日日本軍バリクパパン上陸しスピアフィッシュ輸送船団迎撃命じられたが、戦果はなかった。1月29日スピアフィッシュ51日間行動終えてジャワ島スラバヤ帰投した。 2月7日スピアフィッシュ2回目の哨戒ジャワ海およびフローレス海向かった2月25日スピアフィッシュ南緯0614東経11838分 / 南緯6.233度 東経118.633度 / -6.233; 118.633の地点で、2隻の愛宕重巡洋艦を含む艦隊に対して雷撃行ったものの成功しなかった。3月2日スピアフィッシュジャワ島チラチャップ(英語版)に寄港艦長ジェームズ・C・デンプシー少佐アナポリス1931年組)に代わったスピアフィッシュは、アジア艦隊英語版潜水部隊司令部スタッフ12名を乗艦させると、彼らをオーストラリアへ送り届ける任務就いた3月5日スピアフィッシュ27日間の行動終えてフリーマントル帰投した。

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