第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月
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「シーレイヴン (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説
12月9日、シーレイヴンは最初の哨戒で台湾方面に向かった。台湾海峡方面などで哨戒し、哨戒期間中にマニラに陥落の危機が迫ったので、シーレイヴンは任務完了の際にはダーウィンに向かうよう指示された。シーレイヴンはセレベス島近海やモルッカ海などを哨戒しつつダーウィンに向かった。途中でいくつかの目標を発見したものの、攻撃には至らなかった。1942年1月19日、シーレイヴンは41日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。 1月28日、シーレイヴンは2回目の哨戒で南シナ海、インドシナ半島方面に向かった。2月3日、シーレイヴンはモルッカ海峡における夜間の戦闘で吹雪型駆逐艦と思しき艦艇と交戦してこれを撃沈し、最初の戦果を上げたと判断され、これはバターン半島とコレヒドール島で包囲されたアメリカ・フィリピン両軍への補給のアシストとして称えられた。3月12日、シーレイヴンは43日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がハイラム・キャシディー少佐(アナポリス1931年組)に代わった。
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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月
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「サーモン (SS-182)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説
12月20日、サーモンは最初の哨戒でフィリピン沿岸部に向かった。12月22日から23日にかけての夜、サーモンはリンガエン湾で浮上中に2隻の日本の駆逐艦、皐月と水無月と遭遇し、これを攻撃した。魚雷を放射状に発射することで両方の目標に損傷を与えたと判断され、敵艦はコースを反対方向に変えていったと報告した。当の皐月は爆雷攻撃で対抗した。その後サーモンはスコールの中に隠れ、敵との接触を回避した。1942年に入ってサーモンは南へ移動。ダバオ湾(英語版)およびミンダナオ島の南端で活動し、続いてモルッカ諸島のブル島とセラム島の間にあるマニパ海峡に移動した。2月に入ってからは、サーモンはフローレス海、次いでティモール島の北方からスンダ列島のロンボク海峡を哨戒した。2月13日、サーモンは55日間の行動を終えてジャワ島南岸のチラチャップ(英語版)に帰投した。 2月18日の日本軍によるバリ飛行場の占拠、および2月20日のバリ島沖海戦での米英蘭豪軍の敗北で、スラバヤの米英蘭豪総司令部(英語版)の基地は放棄を余儀なくされ、チラチャップは危機にさらされた。潜水母艦ホーランドは2月20日にその拠点をオーストラリアのエクスマウス湾(英語版)に退却することとなった。 2月20日、サーモンは2回目の哨戒でジャワ海に向かった。セパンジャンとバウェアン島の真西の海域を哨戒。2月24日、サーモンは大型船と駆逐艦を発見したものの、爆雷攻撃に阻まれて目標に上手く近接する事ができず、攻撃は不徹底なものとなった。翌2月25日にも単独航行中の大型船を発見し、複数回雷撃を行ったが目標は高速に物を言わせて去っていった。3月2日未明、サーモンは別の単独航行の大型船を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった。その5時間後、今度は3隻の輸送船を発見したが駆逐艦に阻まれ、2発の爆雷によって退散させられた。日没後、2隻の輸送船と2隻の駆逐艦を発見して接近していったものの、またもや駆逐艦の爆雷攻撃に阻止され、攻撃できなかった。3月5日には香取型練習巡洋艦と思しき艦艇に対して魚雷を発射したが、命中しなかった。3月23日、サーモンは31日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月
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「スピアフィッシュ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年3月」の解説
12月8日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。スピアフィッシュは艦長ローランド・F・プライス少佐(アナポリス1927年組)の指揮下、最初の哨戒で南シナ海およびインドシナ半島方面に向かった。スピアフィッシュは仏領インドシナのサイゴン、カムラン湾、ボルネオ島のタラカンおよびバリクパパン方面を哨戒した。12月20日、スピアフィッシュは日本軍の潜水艦と遭遇して水中で攻撃を行い、4本の魚雷を発射したが、全弾が外れた。1942年1月24日、日本軍がバリクパパンに上陸し、スピアフィッシュは輸送船団の迎撃を命じられたが、戦果はなかった。1月29日、スピアフィッシュは51日間の行動を終えてジャワ島スラバヤに帰投した。 2月7日、スピアフィッシュは2回目の哨戒でジャワ海およびフローレス海に向かった。2月25日、スピアフィッシュは南緯06度14分 東経118度38分 / 南緯6.233度 東経118.633度 / -6.233; 118.633の地点で、2隻の愛宕型重巡洋艦を含む艦隊に対して雷撃を行ったものの成功しなかった。3月2日、スピアフィッシュはジャワ島チラチャップ(英語版)に寄港。艦長がジェームズ・C・デンプシー少佐(アナポリス1931年組)に代わったスピアフィッシュは、アジア艦隊(英語版)潜水部隊司令部のスタッフ12名を乗艦させると、彼らをオーストラリアへ送り届ける任務に就いた。3月5日、スピアフィッシュは27日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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