復古国学とは? わかりやすく解説

復古国学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)

国体」の記事における「復古国学」の解説

復古国学は、いわゆる迷信陥った諸派神道説の不純斥け純正古道なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国尊び自国卑しむ門流儒者対す反発が復古国学の気運助長した。復古国学は契沖荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤によって大成されたとされるが、契沖荷田春満古語研究専念しいわゆる古道探求賀茂真淵から始まる。 賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し古道に関する見識纏めシナ国柄卑しいことを説き、これに比べて日本優秀な点を示した。その大要次のようにいう。 シナ良い人天子の位を譲るというが、殷の末に紂のような悪王出たのはどういうわけか。その後賤しい人が出世して君を殺し帝を自称すれば、世人みな頭を垂れて従い仕える。四方の国を夷などと呼んで卑しめるが、その夷とされる国から出身して唐の帝となった時は誰もが額づいて従った我が国は、天地心のままに治まり、儒のような空虚な小理屈を言わなくても古くから代々栄えた儒教渡来してから天武大乱壬申の乱)がおき、それから奈良の宮(平城京)で衣冠制度雅になったが、邪心多くなった。 およそ荒山荒野自然に道ができるように、世の中にも自然に神代の道が広がって自然に国にできた道の栄えは、皇いよいよ栄え益すものを、かえすがえすも儒の道こそ国を乱すのみ。 唐国心悪しき国であるので、深く教えて表面善き様子であっても結局は大きな悪事をなして世を乱す。 我が国は心の素直な国であるので、少な教えでもよく守る。天地のままに行うことなので教えなくても宜しのである仏教因果応報教えというのは事実のように思われるかもしれないが、戦国の頃に一人殺さないものは平民となり、人を少し殺したのは旗本侍となり、やや多く殺したのは大名となり、さらに一層多く殺したのは一国の主となった。これのどこが因果応報か。我が国固有の武勇の心を鈍らせたのは仏教である。以上。 賀茂真淵学統継ぐ者数十名おり、村田春海小山田与清栗田土満などがいる。その中で出藍本居宣長である。 本居宣長(1730-1801)のライフワーク古事記研究である。その結果大成した古事記伝』には宣長国体観・神道観が随所散見される。これを一つ纏めたものが、明和8年1771)に著した直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う。 皇大御国(すめらおおみくに)は掛(かけま)くも可畏(かしこ)き神御祖(かむみおや)天照大御神あまてらすおおみかみ)の御生(おうまれ)ましまする大(おお)御(み)国(くに)にして、大御神おおみかみ大御手(おおみて)に天(あま)つ璽(しるし)を捧持(ささげもち)して万千秋(よろずちあき)の秋長(あきなが)に吾(わが)皇子(みこ)の所知(しろし)めさん国(くに)なりと言依(ことよ)さし賜(たま)えりしまにまに天雲あまぐも)の向伏(むかぶ)すかぎり、谷蟆たにぐく)の渡(さわた)るきわみ、皇(すめら)御孫(みまごの)命(みこと)の大(おお)御(み)食(おす)国(くに)と定(さだ)まりて、天下あめのした)には荒(あら)ぶる神(かみ)もなく、まつろわぬ人(ひと)もなく、千万ちよろず御世(みよ)の御末(みすえ)の御代(みよ)までの天皇命(すめらみこと)はしも、大御神おおみかみ)の御子(みこ)とましまして天(あま)つ神(かみ)の御心(みこころ)を大(おお)御心(みこころ)として、神代(かみよ)も今(いま)も隔(へだ)てなく、神(かむ)ながら安国やすくに)と平(たいら)けく所知看(しろしみ)しける大御国(おおみくに)になもありければ古(いにし)えの大御世(おおみよ)には道(みち)という言挙ことあげ)もさらになかりき 以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神生まれた国であり、天照大神天璽を手に持って万千秋の秋長に我が皇子所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方からヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり天下荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇神の子であって天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国平らか所知する国であればこそ、古世に道という言葉挙げることもなかった、と。 本居宣長はこういって日本国柄尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと君主定まらず邪神荒ぶるから、人心悪く習俗乱れ、国を取れば誰でも直ち君主となる。上は下に奪われないよう構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信教えなどが生まれのである聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである我が国古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々乱れことなく天下穏やかに治まって皇統長久伝わってきた。その後書籍渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国古道神道名付けた時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下政事までもが漢国のようになり、国が乱れようになった、というのである本居宣長によれば天照大神仰せのとおり皇孫天下所知皇位永遠に動かないことこそ、この道異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという。 また本居宣長は『玉くしげ』を著して日本異国優越する理由天壌無窮の神勅実現していることに求め次のように説いたさてまた本朝皇統は、すなわちこの世照らします天照大御神御末ましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく天地あらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって神代古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。 夏目甕麿(1773-1822)は本居宣長門人であり、文化6年(1809)『古野の若菜』を著しシナ禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ儒教は人の所行を主とし、仏教老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性宗とする点で違いがあると論じた本居大平本居宣長養子であり、その学問正統継いだ文政10年(1827)に『古学要』を著してその中で日本異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ次のように述べた曰く御国日本)は万国祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国手足であり、人間関係にたとえれば御国祖先であり異国族類縁者であり、食い物にたとえれば御国五穀主食)で異国野菜海魚(おかず)の如きのである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足なければ足らないように、五穀があって野菜海魚なければ足らないように、異国はみな御国助け備わりとなるべきものなので、決し憎むべきものではなく睦ぶべきものである、と。 平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長没後門人自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教排斥し古道鼓吹することに熱狂した著書は百余部数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国尊厳闡明するとともに異国攻撃し異教排斥するものばかりである。なかでも日本古道闡明国体尊厳説いたものは文化6年(1809)に講演した古道大意』である。 『古道大意』では、まず神国日本万国比類なき尊い国であるとして次のように言う。 我が国天神殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔違い引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末違いないでござる。 実に御国の人に限りて、すべてこの天地ありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い尊く勝れていることは、まずこの御国神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉め申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国開闢なされたるも、みな神世尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国御出来なされたことなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国称すは実に宇宙挙げて公論なること、さらに論なきことなり。 これを思うに皇国天地モトで、もろもろ事物ことごとく万国優れておる所以また、もろもろ外国ものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござるまた、日本小国であるといって国土大小尊卑分け基準ならない論じた。さらに日本皇統連綿であること、他国比類ない有り難い国であることと、そうである理由論じて次のように述べた神武天皇大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々比類なき有り難御国で〔略〕。天照大御神殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器天子御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。 さらに西川如見日本水土考』やケンプル『日本紀行』を引用し日本の国土の優秀は世界比類がない論じ外国崇拝蘭学者批判したその際国体という語を次のように用いた近頃、はやり初めたオランダ学問をする輩は、よく外国様子知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西のなる国々贔屓して、〔…〕万国絵図などを出して、この通り日本小国じゃなどというて驚かす。〔…〕こりゃ皆、神国神国たるを知らず御国国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる平田篤胤別の著書大道或門』で皇国尊貴である所以述べて次のように述べた天皇血統天照大神より連綿であって神代より千万年の今に至るまで天下大君である。 君臣差別明白に定まっている。天皇より5世までは王を称することを許されており臣下の列ではない。 皇国神国君子国称するのは、皇国自称ではなく他国がそう称するのである天下治めることをマツリゴト唱えるのは神国風儀である。神慮によって世を治め神祭をもって第一とするために、政事という文字マツリゴト訓ずるのである祭事政事は元々一つである。これが神国称する所以である。 皇国君臣の道が正しく天子開闢以来一世である。大い賞賛すべきである天照大神神勅に、子孫万々世に天地とともに長久天下治めよという仰せ万人がよく相守るからである。 天照大神の魂は伊勢内宮にいて、その本体は世界万国を照らす日輪である。皇国はその誕生本国であって天皇その子孫であるから世界万国ことごとく皇国に従うべきである。しかも、皇国君国であり万国は臣国である証拠別にあるが、今それを言うのは省略する。以上。 矢野玄道平田篤胤門人であり、幕末維新期、特に明治初期皇学派の中心人物として新政重きをなした。文久3年(1863)に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本万世一系にして皇統連綿である所以説いた八田知紀も同派の皇学であって弘化2年(1845)に公にした『雑記』において、皇国教えは自然の道であって天照大神神勅以来君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じあわせてシナ国体批評した。 復古国学派の人々儒学者の間で、主として内外国体比較に関して論争惹起された。

※この「復古国学」の解説は、「国体」の解説の一部です。
「復古国学」を含む「国体」の記事については、「国体」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「復古国学」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「復古国学」の関連用語

復古国学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



復古国学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの国体 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS