復古国学
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復古国学は、いわゆる迷信に陥った諸派神道説の不純を斥け、純正な古道なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国を尊び自国を卑しむ物門流儒者に対する反発が復古国学の気運を助長した。復古国学は契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤によって大成されたとされるが、契沖と荷田春満は古語の研究に専念し、いわゆる古道の探求は賀茂真淵から始まる。 賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し、古道に関する見識を纏め、シナの国柄が卑しいことを説き、これに比べて日本の優秀な点を示した。その大要で次のようにいう。 シナは良い人に天子の位を譲るというが、殷の末に紂のような悪王が出たのはどういうわけか。その後も賤しい人が出世して君を殺し帝を自称すれば、世人みな頭を垂れて従い仕える。四方の国を夷などと呼んで卑しめるが、その夷とされる国から出身して唐の帝となった時は誰もが額づいて従った。 我が国は、天地の心のままに治まり、儒のような空虚な小理屈を言わなくても古くから代々栄えた。儒教が渡来してから天武の大乱(壬申の乱)がおき、それから奈良の宮(平城京)で衣冠や制度が雅になったが、邪心が多くなった。 およそ荒山荒野に自然に道ができるように、世の中にも自然に神代の道が広がって、自然に国にできた道の栄えは、皇いよいよ栄え益すものを、かえすがえすも儒の道こそ国を乱すのみ。 唐国は心悪しき国であるので、深く教えても表面は善き様子であっても結局は大きな悪事をなして世を乱す。 我が国は心の素直な国であるので、少ない教えでもよく守る。天地のままに行うことなので教えなくても宜しいのである。 仏教の因果応報の教えというのは事実のように思われるかもしれないが、戦国の頃に一人も殺さないものは平民となり、人を少し殺したのは旗本侍となり、やや多く殺したのは大名となり、さらに一層多く殺したのは一国の主となった。これのどこが因果応報か。我が国固有の武勇の心を鈍らせたのは仏教である。以上。 賀茂真淵の学統を継ぐ者は数十名おり、村田春海、小山田与清、栗田土満などがいる。その中で出藍は本居宣長である。 本居宣長(1730-1801)のライフワークは古事記の研究である。その結果を大成した『古事記伝』には宣長の国体観・神道観が随所に散見される。これを一つに纏めたものが、明和8年(1771)に著した『直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う。 皇大御国(すめらおおみくに)は掛(かけま)くも可畏(かしこ)き神御祖(かむみおや)天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御生(おうまれ)ましまする大(おお)御(み)国(くに)にして、大御神(おおみかみ)大御手(おおみて)に天(あま)つ璽(しるし)を捧持(ささげもち)して万千秋(よろずちあき)の秋長(あきなが)に吾(わが)皇子(みこ)の所知(しろし)めさん国(くに)なりと言依(ことよ)さし賜(たま)えりしまにまに、天雲(あまぐも)の向伏(むかぶ)すかぎり、谷蟆(たにぐく)の渡(さわた)るきわみ、皇(すめら)御孫(みまごの)命(みこと)の大(おお)御(み)食(おす)国(くに)と定(さだ)まりて、天下(あめのした)には荒(あら)ぶる神(かみ)もなく、まつろわぬ人(ひと)もなく、千万(ちよろず)御世(みよ)の御末(みすえ)の御代(みよ)までの天皇命(すめらみこと)はしも、大御神(おおみかみ)の御子(みこ)とましまして天(あま)つ神(かみ)の御心(みこころ)を大(おお)御心(みこころ)として、神代(かみよ)も今(いま)も隔(へだ)てなく、神(かむ)ながら安国(やすくに)と平(たいら)けく所知看(しろしみ)しける大御国(おおみくに)になもありければ古(いにし)えの大御世(おおみよ)には道(みち)という言挙(ことあげ)もさらになかりき 以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神の生まれた国であり、天照大神が天璽を手に持って、万千秋の秋長に我が皇子の所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方から、ヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり、天下に荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇は神の子であって、天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平らかに所知する国であればこそ、古世に道という言葉を挙げることもなかった、と。 本居宣長はこういって日本の国柄の尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと、君主が定まらず邪神が荒ぶるから、人心が悪く習俗が乱れ、国を取れば誰でも直ちに君主となる。上は下に奪われないように構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信の教えなどが生まれるのである。聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである。我が国は古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々は乱れることなく、天下は穏やかに治まって、皇統は長久に伝わってきた。その後、書籍が渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国の古道を神道と名付けた。時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下の政事までもが漢国のようになり、国が乱れるようになった、というのである。本居宣長によれば、天照大神の仰せのとおりに皇孫が天下を所知し皇位が永遠に動かないことこそ、この道が異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという。 また本居宣長は『玉くしげ』を著して、日本が異国に優越する理由を天壌無窮の神勅が実現していることに求め、次のように説いた。 さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らします天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく、天地のあらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって、神代の古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。 夏目甕麿(1773-1822)は本居宣長の門人であり、文化6年(1809)『古野の若菜』を著し、シナの禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ、儒教は人の所行を主とし、仏教や老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性を宗とする点で違いがあると論じた。 本居大平は本居宣長の養子であり、その学問の正統を継いだ。文政10年(1827)に『古学要』を著して、その中で、日本は異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ、次のように述べた。曰く、御国(日本)は万国の祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国は手足であり、人間関係にたとえれば御国は祖先であり異国は族類縁者であり、食い物にたとえれば御国は五穀(主食)で異国は野菜海魚(おかず)の如きものである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足がなければ足らないように、五穀があって野菜海魚がなければ足らないように、異国はみな御国を助け備わりとなるべきものなので、決して憎むべきものではなく相睦ぶべきものである、と。 平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長の没後の門人を自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教を排斥し、古道を鼓吹することに熱狂した。著書は百余部・数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国の尊厳を闡明するとともに、異国を攻撃し異教を排斥するものばかりである。なかでも日本の古道を闡明し国体の尊厳を説いたものは文化6年(1809)に講演した『古道大意』である。 『古道大意』では、まず神国日本が万国に比類なき尊い国であるとして次のように言う。 我が国は天神の殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔な違いで引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国に相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末に違いないでござる。 実に御国の人に限りて、すべてこの天地にありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い、尊く勝れていることは、まずこの御国を神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉めに申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国を開闢なされたるも、みな神世の尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国に御出来なされたることなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国と称すは実に宇宙挙げての公論なること、さらに論なきことなり。 これを思うにも皇国は天地のモトで、もろもろの事物、ことごとく万国に優れておる所以もまた、もろもろの外国のものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござる。 また、日本は小国であるといっても国土の大小は尊卑を分ける基準にならないと論じた。さらに日本が皇統連綿であること、他国に比類ない有り難い国であることと、そうである理由を論じて次のように述べた。 神武天皇は大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈が連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々に比類なき有り難い御国で〔略〕。天照大御神の殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器を天子の御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国は我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。 さらに西川如見『日本水土考』やケンプル『日本紀行』を引用し、日本の国土の優秀は世界に比類がないと論じ、外国崇拝の蘭学者を批判した。その際に国体という語を次のように用いた。 近頃、はやり初めたるオランダの学問をする輩は、よく外国の様子も知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西の極なる国々を贔屓して、〔…〕万国の絵図などを出して、この通り日本は小国じゃなどというて驚かす。〔…〕こりゃ皆、神国の神国たるを知らず、御国の国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国の世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる。 平田篤胤は別の著書『大道或門』で皇国の尊貴である所以を述べて次のように述べた。 天皇の血統は天照大神より連綿であって、神代より千万年の今に至るまで天下の大君である。 君臣の差別は明白に定まっている。天皇より5世までは王を称することを許されており臣下の列ではない。 皇国を神国や君子国と称するのは、皇国の自称ではなく、他国がそう称するのである。 天下を治めることをマツリゴトと唱えるのは神国の風儀である。神慮によって世を治め神祭をもって第一とするために、政事という文字をマツリゴトと訓ずるのである。祭事と政事は元々一つである。これが神国と称する所以である。 皇国は君臣の道が正しく、天子は開闢以来一世である。大いに賞賛すべきである。天照大神の神勅に、子孫万々世に天地とともに長久に天下を治めよという仰せを万人がよく相守るからである。 天照大神の魂は伊勢の内宮にいて、その本体は世界万国を照らす日輪である。皇国はその誕生の本国であって天皇はその子孫であるから、世界万国はことごとく皇国に従うべきである。しかも、皇国は君国であり万国は臣国である証拠は別にあるが、今それを言うのは省略する。以上。 矢野玄道は平田篤胤の門人であり、幕末維新期、特に明治初期に皇学派の中心人物として新政に重きをなした。文久3年(1863)に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本が万世一系にして皇統連綿である所以を説いた。 八田知紀も同派の皇学者であって弘化2年(1845)に公にした『桃岡雑記』において、皇国の教えは自然の道であって、天照大神の神勅以来、君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じ、あわせてシナの国体を批評した。 復古国学派の人々と儒学者の間で、主として内外の国体の比較論に関して論争が惹起された。
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