復古と反動の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:44 UTC 版)
1812年、プロイセンはユダヤ人に市民権を与えた。この年ナポレオンのロシア遠征軍で最左翼に参加していたプロイセン軍であったが、12月30日に国王の許諾なくロシア軍と協定し寝返った。ブリュッヘル将軍は1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破り、プロイセンは再び大国となる。同年のウィーン会議でプロイセンは、かつてポーランド分割で獲得した領土の一部を事実上ロシアに譲ることになったものの、ティルジット条約以前の領土に加えてザクセン王国の北半分、ヴェストファーレン、ラインラントを獲得し、人口は1,000万に達した。同年にはドイツ連邦にも加盟し、盟主であるオーストリア帝国とその勢力を二分した。 しかしこの時代はプロイセンにとって精神的な停滞を招く反動の時代だった。ロシア・オーストリアと結んだ神聖同盟によって、1815年におこったブルシェンシャフト運動などの自由主義的潮流は弾圧され、1819年のカールスバート決議の後、エルンスト・モーリッツ・アルントやシュライエルマッハーは追放、体操の父フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(英語版)は逮捕された。 1817年、ロンドンで世界初ポンド建て5%利付国債を発行した。このころコッカリル兄弟の羊毛紡績工場が誘致された。さらに駅馬車の交通網が発達して時刻表が発行されるようになった。1818年、ロスチャイルドの勧告により王有地を担保として再びロンドンで5%国債を額面の72%で50万ポンド発行した。この年に蒸気船がブランデンブルクの運河を航行し始めた。1837年にベルリンにはボルジッヒ鉄工所が建設され、1838年9月21日にはポツダム・ツェーレンドルフ間に鉄道が開通した。1834年のドイツ関税同盟はプロイセン中心のドイツ経済圏を形成した。産業は飛躍的に発展し、農業国だったプロイセンの工業化が進んだ。
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