反動の時代(1825年 - 1855年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)
「ロシア帝国の歴史」の記事における「反動の時代(1825年 - 1855年)」の解説
詳細は「ニコライ1世 (ロシア皇帝)」、「デカブリストの乱」、「東方問題」、および「クリミア戦争」を参照 1825年11月19日に急死したアレクサンドル1世には跡継ぎの男子がなく、皇位の継承に空白が生じ、弟のニコライ1世(在位1825年 - 1855年)が即位するまでに3週間を要した。この混乱に乗じる形で12月14日に自由主義貴族や士官たちが決起した(デカブリストの乱)。専制政治の打倒と農奴制の廃止を主張する、この反乱の背景はナポレオン戦争に遡り、戦争の際に多数の教育を受けたロシア軍士官が従軍しており、西欧の自由主義思想に接した彼らは国内で秘密結社を組織して専制体制の祖国の改革を模索するようになった。 将校たちは皇帝への宣誓を拒否し、約3000人の反乱軍が憲法制定を要求して元老院広場に集結した。準備不足のまま決起した反乱は容易く鎮圧され、首謀者たちは絞首刑またはシベリア流刑となった。だが、反乱に対する政府の苛酷な報復によって、逆にデカブリストに対する知識人たちの共感が集まり、彼らはロシアにおける革命運動の最初の殉教者と見なされるようになった。 ニコライ1世は革命から専制体制を守るために「正教、専制、国民性(英語版)」(Православие, Самодержавие, Народность)のドクトリンを標榜して警察国家体制の構築を図った。更なる反乱を阻止すべく、ニコライ1世は革命予防措置を目的とする「皇帝官房第三部」と呼ばれる政治秘密警察を設け、スパイが各地に配置された。検閲法が定められて思想弾圧が行われ、さらに弾圧は教育は学問にも伸び、庶民の高等教育への道が閉ざされた。 法体系の不備に不満を持ったニコライ1世は左遷されていたスペランスキーを再起用して法令の集成にあたらせ、1830年に「ロシア帝国法律大全」を編纂させ、1833年には「ロシア帝国法典」を発布した。これによって官僚制の発展・整備が促された一方で、軍人出身のニコライ1世の武官重視の姿勢によって「行政の軍事化」の傾向が現れるようにもなっている。 この時代、ロシアでは農民暴動が増加しており、ニコライ1世は革命予防のために現行の農奴制を維持しつつ、農奴の状態を改善しようと試みたが、効果を上げることはできなかった。 ニコライ1世の外交的課題はオスマン帝国の衰退による東方問題であった。ロシアはオスマン帝国宗主権下にあるモルダヴィア公国とワラキア公国のドナウ二公国に対する影響力を強めており、1821年にはロシアの支援を期待したウラジミレスクがワラキア蜂起を起こしている。蜂起は失敗したが、オスマン帝国によって任命されたギリシャ人(ファナリオティス)による支配体制に終止符が打たれ、ロシアとオスマン帝国とのアッケルマン条約(1826年)により地元出身の公の選出と両国による共同統治体制が確立する。 ギリシャ独立運動を支援すべく、1827年にロシア海軍は英仏と連合艦隊を組み、オスマン=エジプト連合艦隊をナヴァリノの海戦で殲滅した。翌1828年に露土戦争(1828年 - 1829年)を引き起こした。戦争に勝利したロシアはアドリアノープル条約によってドナウ河口、カフカース地方の黒海沿岸部を獲得し、ギリシャの独立、モルダヴィア、ワラキアそしてセルビアの自治を承認させた。ドナウ二公国の宗主権はオスマン帝国に残されたものの、二公国はロシアの保護国となり、クリミア戦争(1853年 - 1856年)まで続くことになる。 ロシアの統治下にある旧ポーランド・リトアニア共和国地域では1830年に反乱が起き、ポーランド国会がニコライ1世の廃位を宣言する事態になったが、ニコライ1世は大軍を派遣してこれを鎮圧した。ポーランドの憲法と国会は廃止され、皇帝が任命する総督が置かれた(11月蜂起)。ヨーロッパで1848年革命が起こった際にも、ニコライ1世は積極的な軍事介入を行い、コシュート・ラヨシュのハンガリー革命軍を粉砕している。ロシアの保護国であったドナウ二公国でも自由主義的要求と二公国統一を求める運動が起こったが、オスマン軍と共同で鎮圧している。反革命外交政策を取るニコライ1世は「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた。 ロシアは東方問題を巡ってイギリス、フランスとの不和が生じており、エルサレムにおける正教会の聖地管理権問題を契機に1853年にオスマン帝国と開戦したが、英仏の介入を招く結果となった(クリミア戦争)。英仏連合軍はクリミア半島に上陸して、セヴァストポリ攻略を目指した。1855年3月2日、ロシア軍の苦戦が続く中、ニコライ1世は心労と肺炎により死去した。 19世紀前半のロシアでは、ロシアの後進性を痛烈に批判したチャーダーエフの『哲学書簡』(1830年)に端を発して、インテリゲンチャ(知識階級)の間で西欧派とスラヴ派との論争が起こった。ホミャコーフを代表的思想家とするスラヴ派は西欧を「堕落したもの」と認識してピョートル1世以前の伝統への回帰を唱え、西欧の個人主義に対比する、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)の集産主義を称揚した。これに対して、ベリンスキーをはじめとする西欧派はスラヴ派の主張を無知と空想の産物に過ぎないと否定し、ロシアの後進性を批判した。
※この「反動の時代(1825年 - 1855年)」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「反動の時代(1825年 - 1855年)」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。
- 反動の時代のページへのリンク