反動と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:29 UTC 版)
「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「反動と死」の解説
1818年頃からアレクサンドル1世の政治的見解には変化が生じていった。ナポレオン戦争に従軍した青年将校の一部は、西欧の進歩に衝撃を受けるとともに祖国の遅れを痛感するようになった。こうした一部の近衛士官は急進化し、革命による共和制樹立、さらには皇帝暗殺の密議を謀る者まで現れた(パーヴェル・ペステリ、ピョートル・カホフスキー、A.I.ヤクボーヴィチなど)。 このような動きが当局によって露見すると、アレクサンドル1世はそれまでの自由主義的政治思想をかなぐり捨てた。対外的には、エクス・ラ・シャペル(アーヘン)でオーストリア宰相メッテルニヒと会談し、親交を結んだ。その後、メッテルニヒに強く影響されるようになり、ナポリ、及びピエモンテで革命が勃発したのを契機にフランス、ドイツ、ロシア国内に動揺が波及するに及んで、一挙に反動化していった。 1820年10月、トロッパウ(現在のオパヴァ(w:Opava))で行われた会議に出席し、自由主義運動を弾圧するために相互に内政干渉ができると定めたトロッパウ議定書(Troppau Protocol)に署名した。1821年にはライバッハ(現在のリュブリャナ)で行われた同様の会議に出席した。この時にオスマン帝国からギリシャ人が独立を目指して反乱を起こしたという報に接したアレクサンドルは、この時から死ぬまで、オスマン帝国から正教会の守護者としての立場とヨーロッパにおける神聖同盟という夢想を抱え、絶えず不安に揺れ動くこととなる。当初は、メッテルニヒに巧みに操られ、ヨーロッパ同盟に重きを置きつつ、正教十字軍の構想とを融合させるべく努力を重ねた。 ロシア国内では、アレクサンドル1世の宗教的「啓蒙主義」の国内普及という考えは、国家主義、反動政治となって展開された。1817年に文部省を宗務と統合し、ゴリツィン公爵を新設された啓蒙宗務教育に任命した。ゴリツィン公については自由主義者との評価・解釈がある一方で、1819年から1821年にかけて新設された帝国大学の閉鎖や、学校教育における自然法、倫理学、論理学の禁止と聖書教育の徹底という反動政策が行われた。 ゴリツィン公は以上のような教育における反動主義の実行者であったが、ゴリツィン公でさえも、ロシア正教会からは自由主義的と異端視される傾向があった。アレクサンドル1世の寵臣で元陸軍大臣のアレクセイ・アラクチェーエフ伯爵と権力闘争を繰り広げることとなる。アレクサンドル1世は両者を使い分け均衡を保っていたが、権力闘争の結果ゴリツィン公は敗れ、辞職を余儀なくされた。アラクチューエフは大臣会議、国家評議会、皇帝官房を掌握し、事実上国政を壟断した。アラクチューエフは無知で残忍かつ卑屈であったが、アレクサンドル1世には忠実で、ナポレオン戦争後の破綻した国家財政再建策として屯田村を創設したが、結果は惨憺たるものに終わった。 青年将校らの秘密結社は急進化していった。アレクサンドル1世は、こうした秘密結社の動きを把握していたと言われるが、晩年になり全てに無関心に陥るようになっていった(鬱病の可能性が指摘されている)。国事行為から次第に身を引くようになり、国政はアラクチェーエフ伯に任せて引きこもりがちとなった。また宮廷に聖職者を招き、キリスト教信仰に救いを求めた。 1825年9月、アレクサンドル・ネフスキー大修道院を訪問し、致命者的な苦行を自らに課していた老アレクセイと親しく会見した。その後、皇后を伴い黒海沿岸のタガンログ離宮に行幸する。11月熱病(重い丹毒(傷口から細菌が入って起こる化膿性の感染症で、高熱を伴う)に罹り、快癒することなく11月19日崩御した。47歳没。死因は腸チフスであろうと考えられている。
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