復古王政の崩壊(1827年–1830年)
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「フランス復古王政」の記事における「復古王政の崩壊(1827年–1830年)」の解説
シャルル10世失脚の実際の原因については現在でも歴史家の間で議論があるが、広く認められているのは、1820年から1830年にかけての一連の景気悪化と自由主義的反対勢力の代議院進出とがあいまって、最終的に保守的なブルボン朝を倒した、ということである。 1827年から1830年にかけてフランスは農工業ともに経済危機に直面したが、これはことによると1789年の革命の一因となった経済危機以上に深刻であった。1820年代後半から穀物収穫高が徐々に落ち込んだことにより、主食品や商品作物の価格が上昇した。これに応じて、フランス各地の農村の農民は穀物の保護関税の引下げと経済状態の改善を求める運動を展開した。しかし、シャルル10世は大土地所有者からの圧力に屈して関税を据え置いたままであった。これは、1816年の「夏のない年」における一連の飢饉に際してルイ18世が関税を緩和したところ、物価が下落し、ブルボン正統主義の伝統的支柱である大土地所有者の怒りを買ったという苦い経験に基づくものであった。こうして、1827年から1830年にかけて、フランス各地の農民は比較的困難な経済状態と物価上昇の時代を迎えた。 同時に、国際的圧力と地方の購買力低下とがあいまって、都市部の経済活動の停滞を招いた。こうした産業の低迷はパリの手工業者の貧困率上昇を招いた。こうして、1830年までに、国民各層がシャルル10世の経済政策に苦しむこととなった。 フランス経済が低迷する中、一連の選挙で代議院の自由主義勢力は比較的優勢となった。1824年に17議席であった自由主義勢力は、1827年に180議席に、1830年に274議席に躍進した。多数派を形成した自由主義者は中道派のマルティニャックやユルトラのポリニャックに不満を募らせ、1814年憲章の限定解釈の維持に努めた。その要求は選挙権の拡大、より自由主義的な経済政策、さらに議会多数派による首班指名権の確立などであった。 また、おおむね代議院における自由主義勢力の伸張と呼応して、フランスでは自由主義的な出版物が増加し、パリを中心に政府広報や右派系の新聞とは対照的な論陣を張った。これらはパリ市民に対し政治的な意見や立場を伝達する上で重要性を増していったところ、自由主義者の隆盛と、いらだちを募らせながら経済的に苦しんでいたフランス民衆との間の結合に決定的な役割を果たしたものとみられる。 1830年までに、シャルル10世の復古王政は山積した課題に直面した。新たに議会多数派を形成した自由主義者は、ポリニャックの対外強硬策を前にしても譲歩する気は全くなかった。パリ市内の自由主義的出版物が政府広報の売上げを上回るなど、パリ市民全般の左傾化も見られた。それにもかかわらず、シャルル10世は右傾化する権力基盤の方しか見ておらず、代議院からの要求の高まりにまったく譲歩できなかった。この局面が限界に達することとなったのである。
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