復古王朝建国とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:38 UTC 版)
「ミンチーニョ」の記事における「復古王朝建国とその後」の解説
1510年、彼はケトゥマティ(現在のタウングー)を築き、城壁を築いた。1510年10月16日(ME872年タザンモン月の満月の日)、ミンチーニョは正式にタウングー王国の独立を宣言した。翌1511年4月11日の戴冠式では、マハー・ティリ・ゼヤ・トゥーラ・ダンマ・ヤザ・ディパディ(Maha Thiri Zeya Thura Dhamma Yaza Dipadi)という王位を授けられた。アヴァは、やはり北からのシャン族の襲撃という問題を抱えていたため、この決定に異議を唱える立場になかったが、いずれにせよこの発表はタウングーは1501年以来、事実上の独立国であったのもあって、単なる形式的なものであった。 正式な独立宣言の後、ミンチーニョは、1501年から1527年にかけて上ビルマの大部分で行われたアヴァとシャン州連合との間の戦いにほとんど関わらなかった。1523年3月15日(ME884年タバウン月新月の日)、アヴァが窮地に陥ったときには、前線基地を旧アヴァ領のヤメチンとタウンドゥウィンギに移動させた。アヴァは1525年4月から5月にかけて1ヶ月間、タウングーを包囲したが、失敗に終わった。これを除いて、王国は概ね平和であった。 1527年3月、シャン州連合がついにアヴァを破ると、ミンチーニョはアバとトウングーの間にわざと井戸を埋め、水路を破壊し、トウングーと盟約者団の間に通行不能地域を作ろうと、田園地帯を荒廃させた。結果アヴァの官僚や住民は、多くがタウングーに逃げ込むことになった。ミンチーニョは(諸説あるが)1530年11月24日に亡くなり、息子のタビンシュエーティーが後継になった。
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