復古神道と後期水戸学
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江戸時代後期に入ると、外国船舶の襲来が繰り返されるようになるなど社会が大きく変動するようになり、そういった社会情勢の中、新たな神道思想が生まれていく。 本居宣長に夢の中で対面し、「死後の門人」を名乗った平田篤胤は、『霊の真柱』『古史伝』『本教外篇』などの主著を著して、本居宣長の神学を批判的に継承しつつ「復古神道」という新たな思想を展開した。その思想は、まず第一に「大和魂を固めるには霊魂の行方を知ることが第一である」と宣言し、現世は「大国主が人の善悪を見定めるために生かしている仮の世」であるとするなど、死後の世界を重視するものであった。篤胤は、宇宙は天、地、黄泉の三要素で構成されていると考え、「人が死ぬと黄泉国へ行く」という神道説を否定して、人が死ぬとその霊魂は「地」にある大国主神が主宰する「幽冥界」へと行き、そこで大国主神から生前の行為についての審判を受けると主張した。「幽冥界」は、世界の主宰神である造化三神のもとで、天皇が治める「顕明界」に相対する世界であり、大国主が主宰する世界である。幽冥界は地であるため、そこに行った霊魂は地上の生きている人々を見守ることができるとしたが、これは日本人の古くからの霊魂観を理論化したもので、神葬祭の理論的な支えともなった。また、中国神話、インド神話、そしてアダムとイヴによるキリスト教神話に至るまで、すべての国の神話は日本神話の「訛り」であり、同じ事実を異なる言葉で表現しているものであると主張した。主宰神的性格や死後の審判などにおいて、キリスト教からは大きな影響を受けていると考えられている。篤胤は、『出定笑語』などで仏教を厳しく批判したが、儒教については『玉襷』で「古道を知らず、ただ漢説のみを囀る」ことは批判したが、儒教の倫理自体については肯定をしている。主に古道論において儒教批判が主であった宣長に対して、国学の宗教性を顕在化した篤胤にとっての主敵は儒教よりも仏教であったのである。 このように、平田篤胤は宣長の実証主義的な研究からは離れ、宗教的な要素を多分に含んだ神道説を提示した。このため、本居大平や伴信友などの同時代の鈴屋門下の国学者からは批判を受けた。一方で、平田篤胤の神学は多くの門下に受け継がれ、大国隆正、矢野玄道、丸山作楽、権田直助、福羽美静らの平田派国学者らが王政復古や明治時代初頭の神祇政策の形成の担い手となった。 また、幕末期に入って勃興し始めたもう一つの勢力がある。後期水戸学である。そもそも、水戸学とは水戸藩を中心に展開した思想のことであり、徳川光圀が大日本史の編纂を始めたことに端を発する学問である。おおよそ18世紀までに展開する前期水戸学は、安積澹泊、佐々宗淳、栗山潜鋒、三宅観瀾らを中心に、修史事業や朱子学的大義名分論に基づく歴史観を特色とする儒教の学問であった。19世紀に入り列強からの圧迫や江戸幕府の衰退など様々な内憂外患が現れてくると、前期水戸学で蓄積された学問に国学を統合し、社会思想を述べて現実政治への積極的な提言を行うようになった。この学風を後期水戸学と称し、徂徠学の影響を受けた立原翠軒の弟子である藤田幽谷が嚆矢を放ち、その門人である藤田東湖、会沢正志斎らによってさらに発展した。東湖は、『弘道館記述義』で日本神話から語り始めて万世一系の天皇による日本の統治にたどり着き、中国の王朝交代に見られた「放伐」「禅譲」を否定し、儒教で聖代視されてきた夏殷周の三代を批判した。この時点で、水戸学では儒教は絶対的な立場ではなくなっている。しかし、国学に対する批判も行い、東湖は「儒教倫理は人情に反する」との立場をとった宣長を批判して、忠孝仁義といった儒教の倫理は天地以来日本に固有に存在していたと主張し、儒教の倫理面については重んじる立場をとった。また、神仏習合を国体を破壊するものとして鋭く批判したが、仏教の国民教化手段としての有効性については高く評価した。 これに次ぎ、会沢正志斎は『新論』を書き上げ思想を表明した。正志斎は、侵略の手段としてのキリスト教に対抗し日本の独立を保つため、天照大神が歴代の天皇に天下を治めさせ、その下であらゆる階層の人々が君臣の分を守りながら、日本の統治に何らかの形で関わっているという国体論を示した。そして、人々の祖先は代々このように天皇の臣下として仕えてきたのであるから、自分が同じように天皇に尽くし「忠」を果たすことは、これまでの先祖の働きを継承することであり先祖に対する「孝」の実現でもあると説き、儒教倫理の「忠」と「孝」を統合した。そして、その天皇と国民の一体を確認するための祭儀が、大嘗祭であると説いた。さらに、正志斎は神道神話の解釈に儒教を取り入れた。『日本書紀』に見られる、天照大御神が瓊瓊杵尊に対して子々孫々まで天祖の子孫が国を治めよと勅した「天壌無窮の神勅」を、五倫の「君臣の忠」の始まりであると主張し、「八咫鏡を神体として祀れ」と勅した「宝鏡奉斎の神勅」を五倫の「親子の孝」の始まりであると主張した。これが、太古より日本において人倫が確立していた証であると考え、神道と儒教を結びつけたのである。 後期水戸学は、吉田松陰をはじめ幕末の志士たちの思想の苗床となった。
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