復古神道と後期水戸学とは? わかりやすく解説

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復古神道と後期水戸学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)

神道の歴史」の記事における「復古神道と後期水戸学」の解説

江戸時代後期に入ると、外国船舶襲来繰り返されるうになるなど社会大きく変動するようになり、そういった社会情勢の中、新たな神道思想生まれていく。 本居宣長夢の中で対面し、「死後の門人」を名乗った平田篤胤は、『霊の真柱』『古史伝』『本教外篇』などの主著著して本居宣長神学批判的に継承しつつ「復古神道」という新たな思想展開した。その思想は、まず第一に大和魂固めるには霊魂行方を知ることが第一である」と宣言し現世は「大国主が人の善悪見定めるために生かしている仮の世」であるとするなど、死後の世界重視するものであった。篤胤は、宇宙は天、地、黄泉の三要素構成されていると考え、「人が死ぬと黄泉国へ行く」という神道説を否定して、人が死ぬとその霊魂は「地」にある大国主神主宰する幽冥界」へと行き、そこで大国主神から生前行為についての審判を受けると主張した。「幽冥界」は、世界主宰神である造化三神のもとで、天皇治める「顕明界」に相対する世界であり、大国主主宰する世界である。幽冥界は地であるため、そこに行った霊魂地上生きている人々見守ることができるとしたが、これは日本人古くからの霊魂観理論化したもので、神葬祭理論的な支えともなったまた、中国神話インド神話、そしてアダムとイヴによるキリスト教神話に至るまで、すべての国の神話日本神話の「訛り」であり、同じ事実異な言葉表現しているものである主張した主宰神的性格死後の審判などにおいて、キリスト教からは大きな影響受けていると考えられている。篤胤は、『出定笑語』などで仏教厳しく批判したが、儒教については『玉襷』で「古道知らず、ただ漢説のみを囀る」ことは批判したが、儒教倫理自体については肯定をしている。主に古道論において儒教批判が主であった宣長に対して国学宗教性顕在化した篤胤にとっての主敵は儒教よりも仏教であったのであるこのように平田篤胤宣長実証主義的な研究からは離れ宗教的な要素多分に含んだ神道説を提示したこのため本居大平伴信友などの同時代鈴屋門下国学者からは批判受けた一方で平田篤胤神学多く門下受け継がれ大国隆正矢野玄道丸山作楽権田直助福羽美静らの平田派国学者らが王政復古明治時代初頭神祇政策形成担い手となったまた、幕末期入って勃興し始めたもう一つ勢力がある。後期水戸学である。そもそも水戸学とは水戸藩中心に展開した思想のことであり、徳川光圀大日本史編纂始めたことに端を発する学問である。おおよそ18世紀まで展開する前期水戸学は、安積澹泊佐々宗淳栗山潜鋒三宅観瀾らを中心に修史事業朱子学大義名分論に基づく歴史観特色とする儒教学問であった19世紀入り列強からの圧迫江戸幕府衰退など様々な内憂外患現れてくると、前期水戸学蓄積され学問国学統合し社会思想述べて現実政治への積極的な提言を行うようになった。この学風後期水戸学称し徂徠学影響受けた立原翠軒弟子である藤田幽谷嚆矢放ち、その門人である藤田東湖会沢正志斎らによってさらに発展した東湖は、『弘道館記述義』で日本神話から語り始めて万世一系天皇による日本の統治にたどり着き中国の王朝交代見られた「放伐」「禅譲」を否定し儒教聖代視されてきた夏殷周三代批判した。この時点で、水戸学では儒教絶対的な立場ではなくなっている。しかし、国学対す批判行い東湖は「儒教倫理人情反する」との立場をとった宣長批判して忠孝仁義といった儒教倫理天地以来日本固有存在していたと主張し儒教倫理面については重んじる立場をとった。また、神仏習合国体破壊するものとして鋭く批判したが、仏教国民教化手段としての有効性について高く評価した。 これに次ぎ会沢正志斎は『新論』を書き上げ思想表明した。正志斎は、侵略の手としてのキリスト教対抗し日本独立を保つため、天照大神歴代天皇天下治めさせ、その下であらゆる階層人々君臣の分を守りながら、日本の統治何らかの形で関わっているという国体論を示した。そして、人々祖先代々このように天皇臣下として仕えてきたのであるから、自分同じよう天皇尽くし「忠」を果たすことは、これまでの先祖働き継承することであり先祖対する「孝」の実現でもあると説き儒教倫理の「忠」と「孝」を統合した。そして、その天皇国民の一体を確認するための祭儀が、大嘗祭であると説いた。さらに、正志斎は神道神話の解釈儒教取り入れた『日本書紀』見られる天照大御神瓊瓊杵尊に対して子々孫々まで天祖の子孫が国を治めよと勅した「天壌無窮の神勅」を、五倫の「君臣の忠」の始まりであると主張し、「八咫鏡神体として祀れ」と勅した「宝鏡奉斎の神勅」を五倫の「親子の孝」の始まりであると主張した。これが、太古より日本において人倫確立していた証であると考え神道儒教を結びつけたのである後期水戸学は、吉田松陰をはじめ幕末の志士たちの思想苗床となった

※この「復古神道と後期水戸学」の解説は、「神道の歴史」の解説の一部です。
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