藤田幽谷とは? わかりやすく解説

ふじた‐ゆうこく〔ふぢたイウコク〕【藤田幽谷】

読み方:ふじたゆうこく

[1774〜1826]江戸後期儒学者水戸藩士。名は一正通称次郎左衛門立原翠軒学び、「大日本史編集加わり彰考館総裁となった門下尊王攘夷派志士多く出た。著「正名論」「勧農或問」など。


ふじたゆうこく 【藤田幽谷】

江戸後期儒学者東湖の父。名は一正水戸古着商二男立原翠軒学び一八歳で『正名論』を著し水戸学立場確立したが、のちに翠軒と対立した彰考館総裁。著『修史始末』他。(一七七四一八二六)

藤田幽谷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/21 14:07 UTC 版)

藤田幽谷像(1886年)草川重遠模写

藤田 幽谷(ふじた ゆうこく、1774年3月29日安永3年2月18日) - 1826年12月29日文政9年12月1日))は、江戸時代後期の儒学者・民政家。後期水戸学の中心人物の一人。藤田東湖の父親。名は一正[1]。通称は熊之介[1]、後に与介[1]、また次郎左衛門[1]。字は子定。著書に『正名論』『勧農或問』『修史始末』など。

略歴

常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれる。母は根本氏の娘。祖父に藤田与左衛門。

幼少の頃から学問で頭角を現すようになり、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎に学ぶ。侃斎の推挙を受け、彰考館編修で後に総裁となる立原翠軒の門人となる。1788年天明8年)にはその推薦で彰考館に入る。1789年(天明9年)には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わる。

水戸藩では徳川光圀の百回遠忌に向けて写本を献本するため『大日本史』の校訂と浄書を行っていたが、『大日本史』の題号に国号を憚るべきとする題号問題が発生していた(史館動揺)。翠軒が藩主治保からこの問題を諮問されている間に幽谷は翠軒を差し置いて題号を『史稿』に改めるべきであるとする意見書を提出し、翠軒の修史方針や藩主治保の修学態度、さらには藩政改革の提言や対外情勢への意見などを著作で発表し、一時は編修職を解任される。この史館動揺は党派的な対立に発展する。

1807年文化4年)彰考館の総裁に就任、150石を受ける。著作である『勧農或問』は水戸藩天保の改革の農村対策に影響を与えた。1812年(文化9年)再び総裁を専任。門人に次男である藤田東湖、豊田天功会沢正志斎らがおり、彼らは水戸学の尊王攘夷思想を全国に広める活動を行った。

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d 歴史館だより No.99(茨城県立歴史館)2025年1月21日閲覧。

外部リンク




藤田幽谷と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤田幽谷」の関連用語

藤田幽谷のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤田幽谷のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤田幽谷 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS