彰考館総裁
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彰考館館員のなかで最高の地位が総裁である。創設当初はなく、天和3年(1683)に初めて置かれた。最初の総裁は人見懋斎である。その後、館員の増加とともに元禄年間には複数となり、享保のはじめまでは4・5人の定員を保った。しかし、その後彰考館の縮小とともに不定となり、1人も置かれないこともあった。総裁は任命制であり、学才のみで選ばれたわけではなかったが、いずれも当時の水戸藩を代表する学者であった。 石高は200石または300石。格式として大番役または小納戸役の職に相当していた(藩士の中では中士程度)。初期のころは他藩からの招聘者が多く、光圀時代の総裁では安積澹泊が唯一の水戸藩出身者である。江戸後期になると招聘者は減り、2代3代にわたって史館員を務めた者もいたが、実力によって士分取り立てになり総裁まで昇進した藤田幽谷(水戸城下の古着商の子)や豊田松岡(天功)(久慈郡の庄屋の子)のように、一代で出世した例もある。 人見懋斎 天和3年~元禄1年 吉弘菊潭 元禄1年~元禄4年 佐々十竹(宗淳) 元禄1年~元禄9年 中村篁渓 元禄4年~正徳2年 鵜飼錬斎 元禄5年~元禄6年 安積澹泊 元禄6年~正徳4年 大串雪瀾 元禄9年~元禄9年 栗山潜鋒 元禄10年~宝永3年 酒泉竹軒 元禄12年~享保3年 大井松隣 宝永4年~享保14年 三宅観瀾 宝永7年~正徳1年 佐治竹暉 正徳1年~享保3年 神代鶴洞 正徳4年~享保13年 小池桃洞 享保4年~享保10年 中島通軒 享保11年~享保14年 打越撲斎 享保12年~元文5年 依田竹雲 享保14年~延享1年 増子滄洲 元文5年~寛延1年 河合菊泉 元文5年~宝暦5年 徳田錦江 寛保2年~宝暦7年,明和3年~明和8年 名越南渓 延享2年~安永4年 鈴木白泉 宝暦8年~寛政5年 富田長洲 明和1年~寛政3年 野口甘谷 安永5年~安永7年 大場南湖 安永7年~天明4年 立原翠軒 天明6年~享和3年 渡辺為春 文化3年~文化4年 高橋坦室 文化4年~文政3年 藤田幽谷 文化4年~文政9年 川口緑野 文化12年~文政5年,文政10年~天保1年 青山拙斉(延于) 文政6年~天保1年 会沢正志斎 天保2年~天保10年 杉山復堂 天保14年~弘化2年 豊田松岡(天功) 安政3年~元治1年 青山佩弦(延光) 元治1年~慶応1年
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