佐々十竹とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 労働 > 職業 > 儒者 > 佐々十竹の意味・解説 

さっさ‐じっちく【佐々十竹】

読み方:さっさじっちく

[1640〜1698]江戸前期儒学者讃岐の人。名は宗淳。水戸藩登用されて、「大日本史編纂(へんさん)のため全国史料探訪した。彰考館総裁


佐々宗淳

(佐々十竹 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/02 01:20 UTC 版)

佐々 宗淳(さっさ むねきよ、寛永17年5月5日1640年6月24日〉 - 元禄11年6月3日1698年7月10日〉)は、江戸時代前期の儒学者は十竹(じっちく)、は子朴(しぼく)、幼名は島介、通称は介三郎(すけさぶろう)。

水戸藩徳川光圀に仕えた。物語『水戸黄門』に登場する佐々木助三郎のモデルとされている。

生涯

父は佐々直尚、母は大木兼能の娘。自伝によると兄4人、姉1人、弟2人がいた。戦国武将佐々成政の実姉の曾孫にあたる。父の直尚は、はじめ熊本の加藤氏寛永に讃岐に移って生駒高俊に仕えた。しかし、生駒騒動が起きると直尚の一家も讃岐を立ち退くこととなり、その途上、瀬戸内の一小島で生まれた。そのため、幼名は島介といった。その後、父は大和の宇陀松山藩織田高長に仕え、少年期は宇陀で過ごした[1]

承応3年(1654年)15歳のときに京の臨済宗妙心寺の僧となり、「祖淳」と号した。妙心寺において『本朝高僧伝』等を著した仏教史家の卍元師蛮に師事した。後に隠元隆琦にも学び、多武峰高野山比叡山に赴くなどその他の宗派も積極的に修行した。しかし、「父母兄弟が殺されても復讐してはならない」とする梵網経の一節を読んで仏教に疑問を持ち、密かに論語を読み儒学に傾倒するようになった。

延宝元年(1673年)、34歳のとき還俗。江戸に出て翌延宝2年9月、水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となる。宗淳の和歌「立ちよれば花の木かげも仮の宿に心とむなと吹くあらしかな」を徳川光圀が賞し召抱えたという。延宝6年4月、史館勤務は元の通りに小納戸役となり、12月200石が給せられた。天和元年(1681年)加増されて300石となる。光圀はその大胆さと見識を愛して側近として用いた。

光圀のもとで『大日本史』の編纂に携わった彰考館史臣の中心人物の一人であり、とりわけ史料収集に多く派遣された。これは京や奈良に関わり深い経歴にもよるものでもあるが、各地を歴訪して古典・文書を探索し、その真偽を鑑定する学力を有しているとされたためである。特に延宝8年(1680年)の「高野山文書」、天和元年(1681年)の「東大寺文書」の調査は、古文書研究の上でも後世に大きく貢献することとなった。また那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の現地監督を行なった。

元禄元年(1688年)、史館総裁に任ぜられる。元禄9年(1696年)、史館総裁を辞任。その後は西山荘の光圀に近侍し、近くの不老沢に居を構えた。

元禄11年(1698年)、不老沢の宅にて死去。享年59(満58歳没)。なお、物語『水戸黄門』の渥美格之進(格さん)のモデルとなった安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)とは彰考館の同僚であり、佐々宗淳の墓碑文で安積澹泊は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している[2]

明治40年(1907年)11月15日、明治政府より贈従四位[3]

主な史料採訪

  • 延宝6年(1678年) - 京都・奈良方面派遣
  • 延宝8年(1680年) - 京都・奈良・吉野・高野山・熊野・河内方面派遣
  • 天和元年(1681年) - 京都・奈良・醍醐方面派遣
  • 天和3年(1683年) - 須賀川(福島)の相楽家結城文書の調査
  • 貞享2年(1685年) - 九州・中国・北陸方面派遣
  • 貞享4年(1687年) - 那須国造碑の調査を命ぜられる
  • 元禄4年(1691年) - 那須国造碑修復工事の総指揮を命ぜられる
  • 元禄5年(1692年) - 那須の車塚(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の発掘調査を行う。湊川楠公碑建立の現場監督に派遣、併せて史料採訪
  • 元禄6年(1693年) - 前年に引き続き京都・奈良方面史料採訪

子孫

  • 二女があったが男子なく、兄宗信の子・宗立を養子に迎えて跡を継がせたが、その宗立も男子なく宝永元年(1704年)に30歳で死去したため、直系の家系は嗣絶した。
  • 同族の子孫に佐々友房佐々弘雄佐々淳行がいる。

墓所

脚注

  1. ^ 大宇陀地域のお寺一覧紹介”. 宇陀市 (2019年1月17日). 2021年1月19日閲覧。
  2. ^ ““格さん”から見ると、“助さん”は「おおらか」「酒飲み」 大田原・風土記の丘で墓碑拓本展示”. 下野新聞. (2016年5月9日). http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160509/2319060 2016年5月9日閲覧。 
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.24

参考文献

関連項目




佐々十竹と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐々十竹」の関連用語

佐々十竹のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐々十竹のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐々宗淳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS