楠公の墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 12:03 UTC 版)
現在の社地に楠木正成を祀る施設を設け、祭祀を行うという意味では、徳川光圀の楠木正成墓碑の建立が現在の湊川神社の起源といえる。ただ光圀の建碑にいたるまでにも、紆余曲折があった。 楠木正成の墓所が記録に現れるのは、豊臣秀吉の時代である。文禄年間の片桐且元による検地の記録に田の中に東西四間南北六間二十四坪の除地(免税地)として楠木正成の墓所がみえている。それ以前に、この墓所に関する記録は無く、首級は家族に返却され、河内の観心寺(現大阪府河内長野市)に葬られたとされる。 江戸時代になって、その墓所の地は尼崎藩の管轄となった。尼崎藩青山家の2代青山幸利の時代になって、墓所にはようやく五輪塔が建てられた。青山幸利は、正保3年(1646年)になって初めて領地に着いて、藩下の八部郡坂本村に埋塚なるものがあることを知った。調査したところ、楠木正成の墓だということが判明したので、その塚に梅の木と松の木を植えて、小さな五輪塔を建てて供養したという。青山幸利の家臣には鵜飼石斎という南朝正統論の儒学者がおり、その影響を受けたものかもしれない。 筑前福岡藩の学者貝原益軒は、寛文4年(1664年)京都からの帰りに兵庫の福岡藩の本陣であった絵屋右近衛門の宿に偶然泊まったとき、楠木正成の墓に参拝した。しかし、田の中に梅と松の木があるのみで、いまだ碑石も建てられていない荒れた状態に驚嘆している。そこで益軒は自ら建碑することを思い立った。その場で碑文を撰して、これを石に彫って碑を建てるように絵屋右近衛門に頼んだ。しかし、福岡に帰ってからのち思い直して、中止することとなった。楠公の建碑は自分のような卑賤の者のするところではないし、自分の藩地でない他地に建碑するのは僭越であるというのがその理由だった。 ただ奇妙なのは貝原益軒の記録(『楠公墓記』)には青山幸利が建てた五輪塔のことは現れず、また延宝7年(1679年)に水戸の学者今井弘済が訪れたときの記録にも、五輪塔のことは触れられていない。しかし、確かに延宝2年(1674年)の諏訪兼郷の記録には5尺に満たない石塔があったと書かれ、延宝8年(1680年)の『福原鬢鏡』には楠公墓の挿絵として五輪塔が書かれている。考えられるのは、貝原益軒が訪れたときにも五輪塔はあったのだが、おそらく五輪塔に供養対象者の銘が無く、誰を供養するためのものかはっきりとしなかったのだろう。 「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『史記』伯夷伝を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。明暦3年(1657年)、江戸駒籠(駒込)の藩邸に史書編纂所(のちの彰考館)を設置し、『大日本史』の編纂に着手した。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、室町幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。 こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。 この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす2人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳であり、もう一人は廣嚴寺の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの2人の出会いにより、実現への運びをみるのである。 佐々宗淳(佐々十竹)は、もと京都妙心寺の僧侶で還俗したのち、延宝年間(1673年 - 1681年)に史臣として水戸藩に仕えることとなった。佐々宗淳は楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。 楠木正成の墓の近くには廣嚴寺という、湊川神社創建まで長らく楠公墓を管理してきた臨済宗の寺院がある。かつては大伽藍を誇り、正成が自害したのも、廣嚴寺境内にあった無為庵という堂であったという。湊川の戦いで廣嚴寺は焼亡し、荒れ果てたという。千巖はその中興の祖で諱を宗般といい、大和の達磨寺・伊勢の宝光院を経て、延宝2年(1674年)に廣嚴寺に来た。千巖が廣嚴寺に来たときには、廣嚴寺は荒廃しており、千巖はこの復興に尽力する。 徳川光圀は延宝8年(1680年)春より、南朝正統論を裏付ける史料を手に入れるため、史臣たちに全国を探索させた。貞享2年(1685年)、宗淳は楠公戦没の地の廣嚴寺を訪れた。ここで宗淳は千巖と会ったのである。ここで宗淳は徳川光圀に建碑の意向があることを伝えたと思われ、千巖もそれを強く請願したと思われる。 その5年後の元禄3年(1690年)12月17日に千巖は水戸藩士鵜飼練斎に宛てて建碑の催促の書簡を送っている。この間、水戸藩と廣嚴寺がどの程度連絡を取っていたのかは分からないが、5年経っても一向に建碑の動きがないので、しびれをきらしたのだろう。 千巖が送った先の催促の返信は元禄4年(1691年)2月23日に来た。再び鵜飼練斎に書簡を送り、同年3月23日に建碑することが決まったことを伝える知らせが届いた。これを受けて千巖は同年6月1日に建碑のことを尼崎藩主青山幸督に郡代を通して報告した。 元禄3年(1690年)10月に徳川光圀は幕府から致仕することを許され、ようやく楠公の建碑に取り掛かることが出来た。 元禄4年(1691年)3月23日に、千巖に建碑を行う旨を伝え、元禄5年(1692年)4月23日、光圀は佐々宗淳に建碑を統轄実行することを命じた。 建碑を任された佐々宗淳は同年6月2日に廣嚴寺に到着した。まず基礎となる石壇造営にかかった。宗淳は同月3日、摂津住吉から石工の権三郎を招き、寸法の詳細を伝え、地震にも耐えられるように隙間無く作るように命じた。千巖は数度住吉まで石の色などを見に行っている。石壇を建てる下準備として敷地を広げるために同年5月に青山幸利の植えた梅松を切った。このうち、梅の木は廣嚴寺に植え替えられ、現在も同寺に存在するという。7月19日、住吉の石工たちが来て基礎の石壇の作業を始めた。青山幸利の建てた五輪塔は地中に埋められた。石工35人は作業小屋を立てて作業を続け、8月6日に2段からなる基礎石壇が完成した。 次に本体である碑石の建立に取り掛かった。碑石は下部の亀の形をした白川石製の部分と和泉石製の板状の碑石からなる。これらは京都で作られ、8月10日、佐々宗淳が京都の石工5人と共に運んできた。12日、石碑を基礎の上に設置し、下部の亀石の下に霊鏡を安置した。霊鏡は直径4寸8分(15cm弱)で裏には「忠臣橘姓楠氏諱正成之霊 元禄五年壬申某月某日 源朝臣光圀謹修墓碑」と鋳られている。この鏡は田中伊賀という者が作り、それを納める黒塗の箱は塗師の五兵衛という者が作った。それを白木の箱に納めて、基礎の石と亀石の間に納められた。13日に佐々宗淳は石工とともに京都に帰っていった。8月17日より碑の廻りに猪垣で囲み、10月9日に基本的な工事は終了した。10月2日には光圀より供養料が廣嚴寺に届き、それによって千巖は僧を雇い、斎会をした。10月22日に千巖は京都の水戸藩邸に赴き、佐々宗淳らに会い、建碑の礼状を渡した。 続いて碑石に文を刻む作業を始めた。建碑が始まって時点では碑文は決まっていなかったが、10月頃に光圀の命で朱舜水の賛を刻むことに決まった。光圀の命では、適当な書師が見つからなければ、佐々宗淳の筆でもよいとしているが、宗淳は京都で岡村元春という者を見つけた。11月19日に京都の岡村元春と石工6人が来て、元春が朱舜水の賛を碑石に写した。11月22日に碑文の陰刻を終えて、建碑は完了した。この建碑にかかった費用は金183両3分と銀8匁3分8厘であった。 碑の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」と光圀の文字で彫られている。孔子が呉の季札の墓に刻んだ「嗚呼有呉延陵季子之墓」というのを参考に「忠臣」の文字を加えて光圀が自ら撰した。季札は、春秋時代の呉の王族。国の使いで徐国を通り過ぎたとき、徐の君が季札の剣を欲した。使いの途中なので、帰りに与えようとしたが、再び訪れたときには既に徐の君は死んでいた。そのため、剣をその墓前に捧げて帰ったという。光圀は、この忠節の美談を楠木正成を重ねたのだろう。 裏の碑文は前述の通り、朱舜水の文である。朱舜水は明の遺臣で万治2年(1659年)に日本に亡命し、水戸藩が抱えていた儒学者である。建碑の10年前の天和2年(1682年)に既に没している。この刻まれた文は生前の寛文10年(1670年)に描かれた狩野探幽の絵の賛として選された文であった。加賀藩主前田綱紀の依頼によって描かれたその絵は『太閤記』に有名な楠木正成正行親子の桜井駅での別れの場面を描いたものである。同文は『舜水先生文集』に収められ、同書より碑文として選ばれたことが誤字(もしくはその後の推敲)から分かる。実際の賛には「之死靡佗、卒之以身許国」とあった部分が、同書では「卒之以身許国、之死靡佗」とあり、碑文でも同様になっているのである。 忠孝著于天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則乱賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈国士無双蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任体士推誠是以謀無不中而戦無不克誓心天地金石不渝不為利回不為害■故能興復王室還於旧都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵搆殺国儲傾移鐘■功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妬前庸臣専断而大将能立功於外者卒之以身許国之死靡佗観其臨終訓子従容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世々忠貞節孝萃乎一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能発掲其盛美大徳耳 右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛明徴士舜水朱之瑜字魯■之所選勤代碑文以垂不朽 次いで元禄8年(1695年)に、建碑とこれまでの楠公墓維持の功績に報い、これからの楠公碑の維持管理のためとして廣嚴寺の堂宇を造営した。同時に楠公墓碑が烏などによって汚されるのを恐れて、碑を覆う堂を建てている。同年5月24日頃より作業を始め、11月25日に落成供養を行っている。これらにかかった費用は実に1500両となる。 その後、尼崎藩では宝暦元年(1751年)尼崎藩主松平忠名が燈籠を寄進する。その後、松平忠興まで代々の藩主が寄進している。 また宝暦9年(1759年)、楠木正成の末裔と称する江戸の楠伝四郎なる者が、西国街道から墓に至る参道を作っている。楠伝四郎は付近の土地を買い上げ、廣嚴寺に寄進し、参道としたのである。その参道の規模は長さ65間(約110m)、幅2間(約3.6m)だったという。 文化10年(1813年)には、地元の大庄屋の平野本治という者が周辺の土地を買い上げて墓域を拡張した。平野本治は300坪を寄進し、周辺の有志・廣嚴寺からも寄進され、340坪となった。本治はまた松の木を自分の山より何本か植え替えて、墓域を整えた。 こうして、光圀の建碑の後も度々整備され、楠公墓所は正成を崇拝する者たちの聖地となり、のちの湊川神社創建の基盤となることになったのである。
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