楠公の祭祀とは? わかりやすく解説

楠公の祭祀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 12:03 UTC 版)

湊川神社」の記事における「楠公の祭祀」の解説

享保20年1735年3月21日墓前では、楠公400年が行われ、天保6年1835年)には墓前500年祭が有志により行われている。このように光圀による墓碑建立以来墓前では祭祀が行われるが、江戸時代後期になると、広く勤皇家の間で墓前とは限らない正成への祭祀が行われるようになる。 現在の湊川神社に繋がると思われる正成の国家による祭祀提案したのは、会沢正志斎の『新論』『偃和言』だろう。会沢正志斎水戸藩儒学者である。尊皇攘夷唱え中でも新論』は維新志士たちの思想的根拠となり、討幕運動大きな影響与えたことでも有名である。 『新論』は文政8年1825年)に書かれ政論書である。当初水戸藩主徳川斉脩献じられたが、斉脩は幕府恐れて公表禁じた。しかし、写本として広がることとなり、その思想尊皇攘夷論とともに維新志士たちに広まっていった。 この『新論』下の「長計」の章で会沢正志斎は、国家功績のあった諸王諸臣を神として祀るべきだと主張している。古代日本では大鳥神社宇都宮二荒山神社鹿島神宮香取神宮春日大社北野天満宮のように国家功績のあった人物を神として祀っていたとし、しかし、現実はそうした祭祀行われなくなり遺憾であるとしている。この祭祀復興して忠孝心・敬心を起こし神徳奉斎の念・敬神の念を生じさせれば民衆もそれに感化されていくだろう、という。史実即すると、これらの神社対す会沢理解は必ずしも妥当なものとはいえないが、この頃儒学者神社観が垣間見えるこの後天保5年1834年秋に書かれた『偃和言』では、年中行事列挙し国民祀るべき祭日挙げて、その意義解説している。『新論』での思想受け継いで祀るべき人物の祭祀具体的に挙げている。古代国家祭祀釈奠とともに東照宮徳川家康2月12日4月17日)・菅公菅原道真2月25日)・大織冠藤原鎌足10月16日)・天智天皇12月3日)・義公徳川光圀12月6日)を挙げ、そして、5月25日には中将挙げている。 次いで創建直接影響与えた思われるのは真木保臣真木和泉)の『経緯愚説』である。久留米水天宮祠官であった真木保臣は、『絵本楠公記』を読んで少年のときより正成を深く敬慕し、今楠公とも呼ばれたほどの正成崇拝者であった天保12年1841年)に真木は、水戸学んだ木村三郎久留米持ち帰った会沢正志斎の『新論』を読み感銘を受け天保15年 / 弘化元年1844年7月水戸遊学し会沢正志斎面談した水戸に向かう途中には楠公墓に参拝している。 真木保臣の正成への崇敬心は確固たるもので、いつから始めたかは定かではないが、彼は毎年正成の命日には楠公祭祀(楠公祭)を行っていた。史料確認できる最初事例弘化4年1847年であるからそれ以前より行っていたのだろう。幽閉の身になっても、吐血するほどの不調のときでも、欠かさず楠公祭行っており、その崇敬度合いを知ることができる。 真木保臣会沢正志斎思想受け継ぎ安政6年1859年5月書かれた『経緯愚説』の「緯」の章で「古来忠臣義士神号を賜ひ、或贈官位、或其孫裔を禄する事」という一条掲げている。 それによると、過去外征功績のあった崇神天皇応神天皇神功皇后山陵奉幣し武内宿禰には神号を賜いて神社を建て、外寇戦った藤原隆家北条時宗河野通有菊池武房や、南北朝時代義士である楠木正成足助重範などに官位贈り、墓がある場合勅使送ってこのたび攘夷助力することを請う宣命賜うのがよい。その子孫には、士族場合召してそのこと命じ庶民落ちてしまっている場合は士に召すか、恩賞与えるかするとよいだろう、としている。 同書参議野宮定功通じて朝廷献じられ、朝廷内部にも正成崇拝広げる一助となった思われる文久2年1862年)、真木保臣は、寺田屋事件関わる真木保臣この年大坂行った楠公祭において、寺田屋事件斬殺された有馬新七田中謙助柴山愛次郎橋口壮介西田直五郎弟子丸龍助森山新五左衛門橋口伝蔵ら8の霊を慰霊のために正成とともに祭っている。後述するように有馬新七真木保臣同じく正成崇拝者であったことが知られ万延元年1860年)には薩摩社を建てている。まさしく有馬新七楠木正成同様に勤皇のために戦死したのであり、楠公祭において楠木正成に続く勤皇殉難者という位置付けで、祭祀されたのである楠木正成崇拝祭祀した有馬は、正成のように殉国し、彼を祭った真木保臣ものちの禁門の変自刃殉国するわけだが、同じ目的に向かう者として祭る側が祭られる側を理想とし、その目的実現祭神人物の力を借れるように願いときには祭神のように殉難することも厭わないと誓うという、この思想靖国神社受け継がれるのである。 翌文久3年1863年)、八月十八日の政変によって三条実美始めとする三条西季知東久世通禧澤宣嘉四条隆謌錦小路頼徳壬生基修七卿京都追われて、長州に向かう。三条実美らは、長州逃れる際に湊川楠公墓碑参拝しており、朝廷内部にも楠公崇拝広まっていたことが分かる長州逃避後の元治元年1864年5月25日には、周防湯田旅舎で、楠公祭行っている。七卿落ちには長州藩接近していた真木保臣同行しており、この楠公祭にも参加している。もしくは真木楠公祭提案したのかもしれない慶応2年1866年)とその翌年楠公祭大宰府行った七卿一人である東久世通禧はのちに湊川神社創建関与することとなる。 真木保臣影響受けてか、元治元年1864年)には長州藩でも楠公祭行っている。長州藩主毛利敬親明倫館祭場として楠公祭行った注目されるのは、このとき、真木大坂での楠公祭同様に藩に殉じた村田清風吉田松陰来原良蔵など17あわせて祀っていることである。慶応元年1865年5月14日には佐甲但馬楠公祭には殉難者を従祀することを上申この上申に基づいてその後1869年明治2年)に至るまで毎年長州藩では楠公祭合わせて殉難者を祀るうになる長州藩殉難者の祭祀早くから始めている。 ほかの各藩楠公祭見て行くと、石見津和野藩では、慶応3年1867年)に初め楠公祭行った藩主亀井茲監養老館祭場として、正成を始めとする元弘建武に殉節した忠臣祭った1869年明治2年)にはそれらの神霊養老館鎮守として鎮座させた。津和野藩直接湊川神社創建には関わりないが、藩主亀井茲視と藩士福羽美静は、維新後神祇官要職についており、楠公祭形式などに影響及ぼしている可能性は高い。 佐賀藩では深江信渓が楠公親子決別の像を作り早く寛文3年1663年)に佐賀郡北原村永明寺祀ったと言われている。それを文化13年1816年)に高伝寺梅林庵に移したという。嘉永3年1850年)、枝吉神陽相良左衛門島義勇大木喬任らが政治結社楠公義祭同盟結成し梅林庵で楠公祭毎年行った。これを知った家老鍋島安房安政元年1854年)には藩の鎮守竜造寺八幡宮末社のひとつを取り払い楠公社に改めた万延元年1860年2月には、前述したように薩摩藩有馬新七が町田久成と協議して町田家安永6年1777年)より祭祀していたと伝え楠公小祠町田家領地である石谷村現在の鹿児島市石谷町)へ移して改め小祠立てた。この楠公社の鎮座式には大久保利通岩下佐次右衛門伊地知正治有村左衛門などが参列している。岩下方平岩下佐次右衛門)はのちに湊川神社創建関わる人物である。この楠公社は明治になって西郷隆盛鹿児島軍務局遷座したが、廃藩置県による軍務局廃止後は西郷私学校祀られた。1876年明治9年)に至って辺見十郎太請願により宮之城に移されて、現存している。 尾張藩では文久2年1862年)、国学者植松茂岳が藩許を得て洲崎神社境内楠公物部守屋和気清麻呂祀る霊神社を立てている。その後名古屋富士浅間神社(現:名古屋市中区大須2-17)の境内移されている。また、慶応元年1865年9月丹羽佐一郎が私祀していた社を藩許を得て名古屋神明社(現:名古屋市東区徳川2)に遷座境内社祀った慶応3年1867年)、子の丹羽賢田中不二麿国枝宇が社殿改築している。

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