復古神道の成立
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文化9年(1812年)、篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くした。篤胤は深い悲しみのなか「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」の歌を詠んだ。愛妻の死は、死後の霊や幽冥への関心を促し、本格的な幽界研究へとつながっていった。 同年、綾瀬の死にあって篤胤は、幽冥界を論じた『霊能真柱(たまのみはしら)』を書き上げた。ここで、篤胤は従来はなかった彼独特の生死感を説いた。この書は、「霊の行方の安定(しづまり)を知」るならば、「大倭心(やまとごころ)を堅むべく」、大倭心が固められるならば「真道(まことのみち」を知ることができるという死後安心論の意図をもって著述された。すなわち、本居宣長が、人は死ねばその霊は汚き他界、つまり「夜見」(黄泉)の世界へゆくのであるから、人が死ぬことはじつに悲しいことであるとしたのに対し、篤胤は、人は生きては天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の「御民(みたみ)」となり、死しては大国主神が主宰する「幽冥」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから死後は必ずしも恐怖するものではないと説いた。そして、その「幽冥」とは、われわれが生きる顕界と同じ空間、山や森、墓といったわれわれの身近なところにあって、決して他界ではなく、幽冥界からはこちら側(顕界)が見えるものとし、こちら側から向こう側(「幽冥」)が見えないだけであるとした。さらに、神はわれわれとはさほど遠くない「幽冥」の世界から顕界に生きるわれわれの生命と暮らし、郷土の平和と安寧をいつも見守り、加護してくれていると説いた。篤胤は、これを10個の図によって、開闢のはじめの混沌たる原質から天(太陽)・地(地球)・泉(月)から成る宇宙がいかにして生成されたかを、地動説的な解釈をほどこしつつ説明している。篤胤は、上述の服部中庸『三大考』に「産霊(むすび)の霊力」のはたらきを加え、そのうえで、天照大神が瓊瓊杵尊に命じて治めさせた「顕世(うつしよ)」と大国主命が治める「幽世(かくりよ)」を対比させ、すべては「顕明事(あらわごと)」と「幽冥事(かくりごと)」の2つによって均衡が保たれるのであって、これは大国主命がみずから退隠した勇気によって保証されていると説明し、このことによって死後の霊魂は心安らかに幽冥界に向かうことができるとした。 篤胤が求めたのはこの世の幸福であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めた。ここで篤胤は、天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立している。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」だった。 平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理もふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくのが彼の関心であったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱と解釈された。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなく、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索し、それに必要な神学を構築するために『古事記』『日本書紀』などの古典および各社にのこる祝詞を利用していた。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴屋とはしだいに疎遠になっていった。 文化10年(1813年)、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している。篤胤は、ロシア情報を獲得するためにロシア語辞書までみずから編纂していた。文化12年(1815年)、のちに経世論者となる出羽国雄勝郡郡山村(現、秋田県雄勝郡羽後町)出身で、篤胤より年長の佐藤信淵が入門した。
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