キセリャクとは? わかりやすく解説

キセリャク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/30 14:59 UTC 版)

キセリャク
Kiseljak
Kiseljak
Кисељак

キセリャク市街
基礎自治体
位置

ボスニア・ヘルツェゴビナでのキセリャクの位置
座標 : 北緯43度57分 東経18度05分 / 北緯43.950度 東経18.083度 / 43.950; 18.083
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 構成体  ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
  中央ボスニア県
 基礎自治体 キセリャク
市長 Mladen Mišurić-Ramljak
HDZ BiH)
地理
面積  
  基礎自治体 165 km2
標高 548 m
人口
人口 (2009年現在)
  基礎自治体 20,710人
    人口密度   126人/km2
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
市外局番 +387 (0) 30
公式ウェブサイト : opcina-kiseljak

キセリャククロアチア語: Kiseljak,ボスニア語: Kiseljak,セルビア語: Кисељак)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦中央ボスニア県に属する都市および基礎自治体である。首都サラエヴォの北西、ゼニツァの南に位置しフォイニツァ川、レペニツァ川、クレシェヴカ川などボスナ川支流の低地に位置する。また、ヴィソコ、フォイニツァ、クレシェヴォ、ラコヴィツァからの道路が交わる。

歴史

キセリャク周辺に人が住み始めたのは石器時代初期からで、集落の跡が1つはカトリック教会とホテルダルマティア(Hotel Dalmacija)の間にもう一つが郊外のハン・プロツァ村にあった。中世、キセリャク・レプニツァ地域が初めて言及されたのは1244年のことである。オスマン帝国の支配後はすべての区域はオスマンの行政区であるナハイヤ ( ناحية, ,nahiye)となった。キセリャクが単独で初めて言及されるのは1531年のことで、スロベニア人の作家ベネディクト・クリペシチ(Benedict Kuripešić)により言及されている。14世紀にハディ・ウヴェジス(Hadži-Uvejs)が今日のキセリャクの基盤となる町を築き、モスクキャラバンサライ(隊商宿)、警備所などを造った。これにより多くの旅行者がキセリャクを訪れており、あるフランス人は1806年と1807年にミネラルウォーターについて記録し、オーストリアの地質学者アミ・ブーエは1836年に初めてキセリャクを訪れ、1838年に再訪し水が美味しいことや多くの旅行者が町を訪れていることを記録している。ローマの発見もまた大きく、中世期の多くの墓も発見されている。1908年にウクチェブチ村でイリュリア人の居住地跡が発見され、ビリェラ村でもイリュリア人の居住地跡が残されていた。この他にもローマ時代の建築物などや貨幣が発見され、そのうちの一部はボスニア・ヘルツェゴビナの国立博物館やザグレブの考古学博物館、フォイニツァのフランシスコ会修道院などに収蔵されている。パロス・ウクチェヴチ(Paros Ukućevci)の村はボスニア・ヘルツェゴビナの中でも最大規模の考古学的な場所である。

1991年に入るとキセリャクでは内戦に備えクロアチア人たちが組織化し武器を手に入れた。その後、キセリャクではユーゴスラビア人民軍の犠牲にならずバッラクを手に入れている。組織化された組織はその後組織されたクロアチア防衛評議会で、最初の軍事行動はヤイツェでのスルプスカ共和国に対するものであった。紛争によるキセリャクでの直接的な影響はムスリム勢力とクロアチア勢力との間のものでムスリム勢力は後のボスニア・ヘルツェゴビナ軍である。クロアチア勢力とボシュニャク勢力のキセリャクでの紛争はハン・プロチャ村、カザギチ村、ゴミノニツァ村などで発生し戦いではクロアチア勢力が勝利し、ブゴイノ、コニツではボシュニャク人側が勝利している。

地区

Azapovići • Badnje • Behrići • Bilalovac • Bliznice • Boljkovići • Borina • Brizje • Brnjaci • Bukovica • Buzuci • Čalikovac • Čizma • Čubren • Datići • Demići • Devetaci • Doci • Donji Palež • Draževići • Dubrave • Dugo Polje • Duhri • Duke • Gaj • Gojakovac • Gomionica • Gornji Palež • Gradac • Grahovci • Gromiljak • Gunjače • Hadrovci • Han Ploča • Hercezi • Homolj • Hrastovi • Ivica • Jehovac • Katunište • Kazagići • Kiseljak • Kotačala • Kovači • Krčevine • Križići • Kuliješ • Lug • Ljetovik • Mahala Gomionica • Mahala Višnjica • Male Sotnice • Markovići • Maslinovići • Medovci • Medovići • Miroševići • Mrakovi • Odrače • Paretak • Pariževići • Pobrđe Milodraž • Pobrđe Orahovo • Podastinje • Podastinjsko Brdo • Polje Višnjica • Potkraj • Radanovići • Radeljevići • Rauševac • Rotilj • Solakovići • Stojkovići • Svinjarevo • Šahinovići • Toplica • Tulica • Velike Sotnice • Višnjica • Zabrđe • Završje • Žeželovo

人口動態

1971年

合計18,335人

1991年

合計24,426人

  • クロアチア人 - 51.61%
  • ボシュニャク人 - 40.92%
  • セルビア人 - 3.11%
  • ユーゴスラビア人 - 2.48%
  • その他 - 1.88%[1]

2005年

クロアチア人が73%、ボシュニャク人が26%を占める。

脚注


キセリャク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)

ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「キセリャク」の解説

ヴィテズブソヴァチャ同様のことがキセリャクでも1992年4月から11月にかけて行われクロアチア人勢力はキセリャクの政治的軍事的支配権確立するために一連の作戦行った。キセリャクの支配者らはクロアチア人民族主義プロパガンダ流布するためのラジオ放送局設立した1992年5月14日、ブラシュキッチ(Blaškić)将軍は、かつてユーゴスラビア人民軍英語版)のものであった軍事基地からボスニア郷土防衛軍追放した

※この「キセリャク」の解説は、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の解説の一部です。
「キセリャク」を含む「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事については、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「キセリャク」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キセリャク」の関連用語

キセリャクのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キセリャクのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのキセリャク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラシュヴァ渓谷の民族浄化 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS