ブソヴァチャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「ブソヴァチャ」の解説
ヴィテズと同様の差別的政策がブソヴァチャ(英語版)でも行われた。1992年5月10日、ダリオ・コルディッチとイヴォ・ブルナダ(Ivo Brnada)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ郷土防衛軍との間で合意されていた武器の配分協定の破棄、武器の押収、ならびに兵舎の接収を決定した。コルディッチらはすべてのボシュニャク人の兵士に対して武器を手放し、クロアチア人勢力の命令の下に服するよう求める最後通牒を発布する。ダリオ・コルディッチおよびフロリアン・グラヴォチェヴィッチ(Florian Glavočević)は1992年5月22日の命令により、ブソヴァチャ市自治体の領域においてクロアチア防衛評議会に行政上の権限を与える道を開いた。この2件の命令に続いて、域内のボスニア・ヘルツェゴビナの政府機関を廃止し、ボシュニャク人は地方自治の体制から排除されていった。クロアチア人勢力はスクラドノ(Skradno)のテレビ放送局を接収して自前のテレビ・ラジオ放送局を設置、プロパガンダを流布し、また各種の公共機関を接収してその庁舎にクロアチア国旗を掲げ、通貨としてクロアチア・ディナールの使用を定めた。この間、ブソヴァチャに住むボシュニャク人は、クロアチア人政府への忠誠宣言に署名することを強いられ、また彼らの経営する商店・企業などは攻撃対象となり、次第に多くの人が、大量虐殺を恐れて域外に脱出するようになった。
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