セルビア王国の経済的自立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:23 UTC 版)
「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「セルビア王国の経済的自立」の解説
1903年、親オーストリア=ハンガリー帝国派だったオブレノヴィッチ家のセルビア国王アレクサンダルがクーデターで暗殺され、カラジョルジェヴィチ家から親ロシア帝国派のペータル1世が即位した。ペータル1世は南スラヴ統一主義に熱心であった。 以後セルビア王国はオーストリア=ハンガリー帝国からの経済的自立を目指して動き始め、ブルガリア公国やモンテネグロ公国との関係を強化していく。 1906年、エーレンタールがオーストリア=ハンガリー帝国の新たな外相となった。エーレンタールは日露戦争後のロシア帝国がバルカン半島で積極的な南下政策を実行することと、オスマン帝国の衰退が決定的であることを踏まえ、ロシア帝国と行動を共にする方針を提案した。しかしオーストリア=ハンガリー帝国の外務は他国の動向からはあまり独立できておらず、同年にアウスグライヒが更新されると、その内容によってハンガリー王国とセルビア王国が経済的な衝突を深めた。 結果として同年、セルビア王国の主要輸出品であった豚への関税を巡る貿易摩擦「豚戦争」が発生し、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の対立がさらに深まる。この「豚戦争」により、セルビア王国は経済的自立を達成した上でロシア帝国に接近するに至った。
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