セルビア王位継承と兄との対立
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「ステファン・ネマニッチ」の記事における「セルビア王位継承と兄との対立」の解説
1195年に作成されたコトルの聖ルカ教会の碑文には、ネマニッチの兄ヴカンがドゥクリャ(英語版)、ダルマチア、トラヴニア(英語版)、トプリツァ王の称号を有していたことが記されている。ネマニャはビザンツの王女を妻としていた次子のネマニッチが後継者にふさわしいと考えていたが、このネマニャの意図に対して、ヴカンは自身が有していたドゥクリャ王位を強調することで反対の意を示していたと思われる。 1196年3月25日、ネマニャはラスに臣下を招集し、次子のネマニッチを後継者に指名して退位を宣言し、ネマニッチに全ての領地を譲り渡した。 修道士となりシメオンと名を改めたネマニャはストゥデニツァ修道院に隠棲し、またネマニッチの母アナスタシアも尼僧として出家した。シメオンはサヴァに名前を改めた末子のラストゥコの嘆願を受けてアトス山に移り、サヴァと共にヴァドペディ修道院(英語版)に居住した。1199年にシメオンとサヴァはアトス山にヒランダル修道院(英語版)を設立、ヒランダル修道院はセルビアの精神文化の中心地となった。同年2月13日にシメオンは逝去する。 このネマニャの宣言は従来のセルビアの長子相続の伝統に反するものであり、ヴカンは自らの王位の継承を主張し、ネマニッチの即位を簡単には受け入れなかった。ネマニャの存命中、ヴカンはネマニッチの支配を認めていたが、ネマニャが没するとただちに王位を求めて活動を始めた。ヴカンはハンガリー王イムレ1世に対して援助を求め、1202年にハンガリー軍がヴカンへの援軍として派遣される。ヴカンに敗北したネマニッチは当時ハンガリーと交戦していたブルガリアに亡命し、代わってヴカンがセルビア王位に就いた。1202年から1203年にかけて作成された碑文には、ヴカンがセルビア全土、ゼタ、ニシャヴァ(英語版)、港湾都市を支配する「大ジュパン」の称号を帯びていたことが記されている。 ヴカンは支援の見返りとしてハンガリーに臣従を誓い、教皇に戴冠と引き換えにカトリックへの改宗を約束した。しかし、ハンガリーの臣下となったヴカンはブルガリアと敵対することになり、1203年にセルビアはブルガリア軍の攻撃を受け、ニシュを初めとするセルビア領が陥落した。戦争の混乱は収まらず、ヴカンの改宗宣言についても反対する声が上がる中で、ネマニッチはセルビアに帰国した。1204年にネマニッチはヴカンを打倒して再び王位に就き、敗れたヴカンは自身の領地であるゼタに逃亡した。 1205年末から1206年初頭(もしくは1206年末から1207年初頭)の冬、アトス山のサヴァがシメオンの不朽体を伴ってセルビアに帰国、ネマニッチとヴカンの争いを仲裁し、両者の間に和睦が成立した。サヴァと彼に従う聖職者たちに対して、ネマニッチはセルビアに残るよう要請し、要請を受け入れたサヴァはセルビア正教会の聖職者とセルビア国民の教育において多大な功績を残した。
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