セルビア王位継承と兄との対立とは? わかりやすく解説

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セルビア王位継承と兄との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 00:33 UTC 版)

ステファン・ネマニッチ」の記事における「セルビア王位継承と兄との対立」の解説

1195年作成されコトル聖ルカ教会碑文には、ネマニッチの兄ヴカンがドゥクリャ(英語版)、ダルマチア、トラヴニア(英語版)、トプリツァ王の称号有していたことが記されている。ネマニャビザンツの王女を妻としていた次子のネマニッチが後継者にふさわしいと考えていたが、このネマニャ意図に対して、ヴカンは自身有していたドゥクリャ王位強調することで反対の意を示していたと思われる1196年3月25日ネマニャラス臣下招集し次子のネマニッチを後継者指名して退位宣言し、ネマニッチに全ての領地譲り渡した修道士となりシメオンと名を改めたネマニャストゥデニツァ修道院隠棲し、またネマニッチの母アナスタシア尼僧として出家したシメオンサヴァに名前を改めた末子のラストゥコの嘆願受けてアトス山移りサヴァと共にヴァドペディ修道院英語版)に居住した1199年シメオンサヴァアトス山ヒランダル修道院英語版)を設立ヒランダル修道院セルビア精神文化中心地となった同年2月13日シメオン逝去する。 このネマニャ宣言従来セルビア長子相続伝統反するものであり、ヴカンは自らの王位の継承主張し、ネマニッチの即位簡単に受け入れなかった。ネマニャ存命中、ヴカンはネマニッチの支配認めていたが、ネマニャ没するとただちに王位求めて活動始めた。ヴカンはハンガリー王イムレ1世に対して援助求め1202年ハンガリー軍がヴカンへの援軍として派遣される。ヴカンに敗北したネマニッチは当時ハンガリー交戦していたブルガリア亡命し、代わってヴカンがセルビア王位就いた1202年から1203年にかけて作成され碑文には、ヴカンがセルビア全土ゼタ、ニシャヴァ(英語版)、港湾都市支配する「大ジュパン」の称号帯びていたことが記されている。 ヴカンは支援の見返りとしてハンガリー臣従誓い教皇戴冠引き換えカトリックへの改宗約束した。しかし、ハンガリー臣下となったヴカンはブルガリア敵対することになり、1203年セルビアブルガリア軍攻撃を受け、ニシュ初めとするセルビア領が陥落した戦争混乱は収まらず、ヴカンの改宗宣言についても反対する声が上がる中で、ネマニッチはセルビア帰国した1204年にネマニッチはヴカンを打倒して再び王位に就き敗れたヴカンは自身領地であるゼタ逃亡した1205年末から1206年初頭もしくは1206年末から1207年初頭)の冬、アトス山サヴァシメオン不朽体伴ってセルビア帰国、ネマニッチとヴカンの争い仲裁し両者の間に和睦成立したサヴァ彼に従う聖職者たちに対して、ネマニッチはセルビアに残るよう要請し要請受け入れたサヴァセルビア正教会聖職者セルビア国民教育において多大な功績残した

※この「セルビア王位継承と兄との対立」の解説は、「ステファン・ネマニッチ」の解説の一部です。
「セルビア王位継承と兄との対立」を含む「ステファン・ネマニッチ」の記事については、「ステファン・ネマニッチ」の概要を参照ください。

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