セルビア蜂起と自治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/17 15:29 UTC 版)
「ミロシュ・オブレノヴィッチ1世」の記事における「セルビア蜂起と自治」の解説
第1次セルビア蜂起(en)に参加し、蜂起が収束する1813年まで戦った。ミロシュの異父兄であるミランもまた蜂起に参加し、ルドニク(Rudnik)地方のヴォイヴォダ(領主)に昇進した。蜂起が失敗した後も、ミロシュは反乱指導者の1人としてセルビアにとどまり、オスマン帝国の報復的反撃に直面した。ミロシュは1817年にカラジョルジェ・ペトロヴィッチ(en)を暗殺し、セルビア人の指導者となった。 1815年4月に第2次セルビア蜂起(en)を企てたミロシュはこれを指導した。オスマン帝国は1817年に至るまでミロシュの軍勢に対して優勢であったが、ミロシュはオスマン帝国軍の司令官であるマラシュリ・アリー・パシャ(Maraşlı Ali Paşa)と交渉して停戦合意を得た。合意の結果として、セルビアはオスマン帝国の宗主権下にとどまったものの一定の自治権を獲得し、ミロシュは専制的統治者として権力の座にとどまることとなった。さらに、1830年と1833年のスルタンの勅令により、セルビアはミロシュを世襲の公とする自治公国となり、領土を拡大した。また、セルビア正教会の府主教としてベオグラード府主教がコンスタンディヌーポリ総主教から独立する形で創設され、ロシアはセルビアの自治に対して保証人的地位に立つことが承認された。
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